今の時代にクルマを選ぶということ

更新日:2018/06/13

ごまんとあるクルマの中から、買って後悔しない1台を選ぶというのは大変なことだ。新車を購入する場合は、最低でも100万円を超える出費を覚悟しなければならない。しかもそのクルマとは数年間は付き合うことになるし、維持費だって掛かってくる。それに最近のクルマにはハイブリッドをはじめ、ダウンサイジングターボやクリーンディーゼル、ツインクラッチなど以前は無かった言葉が渦巻いている。自分のクルマを持たないカーシェアリングのような新しいクルマとの付き合い方も生まれて来た現代、自分のクルマを買うとはどういう意味があるのだろう。

text:岡崎五朗、松本 葉 photo:長谷川徹 [aheadアーカイブス vol.139 2014年6月号]


複雑すぎる日本のクルマ市場

日本ほど品揃えが豊富な国はない。スナック菓子やインスタントラーメンのフレーバー、スーパーマーケットに並んでいる魚の種類、焼き肉屋のメニューに並ぶ数々の稀少部位、コスメ、文房具、家電、スマホ、カメラ…。雑誌だってそうだ。大型書店に行くと、見たこともない雑誌の数に驚かされる。いったいどうやって商業ベースにのせているのだろうかと、こちらが心配してしまうほどである。

ユーザーの多様化、企業間での激しい競争、移り気な消費者など、日本の品揃えの多さを説明する理由はいろいろある。しかしその背景にある根本的な理由は、日本人がもつ「お客様は神様」という理念だろう。これがいいんだと作り手側の価値観を押しつけるのではなく、求める人が一人でもいればそこに果敢に切り込んでいく。結果、店頭には数え切れないほど多種多様な商品が並ぶことになる。と同時に、他社が成功すればすかさず追随するというマメさというか節操のなさというか、そういう特質も、商品バリエーションの多さに拍車を加える。

クルマの世界にも同じことが言える。自国内に8社もの乗用車メーカーが乱立する国など他になく、しかもそれぞれが多種多様なモデルを展開。試しに現時点で販売されている車種を数えはじめてみたものの、トヨタと日産だけで100車種を超えることがわかった時点で諦めた。そこに韓国メーカーを除く世界の主要メーカーが加わるのだから、この国では軽自動車から超高級車まで、ありとあらゆる種類のクルマが手に入るわけだ。

自分に合ったクルマを選べる可能性が高くなるという意味で、選択肢の広さは歓迎すべきことだ。しかしあまりにも数が多くなると、逆に選択する意欲が萎えてしまうのもまた現実だろう。

先日、仕事帰りに西麻布にオープンしたばかりのカフェに立ち寄った。軽井沢に本店を構えるこの店はコーヒーに対する強いこだわりがウリなのだが、メニューの多さには面食らった。なにしろ多種多彩な豆や、複数の抽出方法などをあわせると選択肢は悠に60種を超える。コーヒーは好きだが、かといってマニアでもない僕にとって、聞き覚えのない抽出方法や豆が羅列されたメニューの中から一杯を選び出すのは実に困難な作業だった。結局、店員が勧める「西麻布ブレンド」なるものにしてそれなりに満足したのだが、もしかしたらもっと好みに合うコーヒーがあったかもしれない。まあ、一杯数百円のコーヒーなら何度でも挑戦できるけれど、どんなに安くても100万円。場合によっては500万円オーバー。いったん買ったら数年は付き合う高価な耐久消費財=クルマの場合、そういうわけにはいかない。ならばどうすればいいのか?

車種だけでも数え切れないほどあるというのに、ハイブリッド、アトキンソンサイクル、ダウンサイジングターボ、ディーゼルなどなど、最近はエンジンだけでもやたらと種類が多い。トランスミッションにしても、従来のMTvsATの二択にとどまらず、ATひとつとってもトルコン式AT、CVT、デュアルクラッチ式にシングルクラッチ式といったさまざまなタイプがある。いったいなにを選べばいいのか、分からなくなるのも無理はない。

詳しくは後述するが、僕はクルマ選びをするとき、数字ではなくフィーリングを重視する。というか、25年間にわたり年間200台以上のクルマに試乗してきた結果、自然にそうなった。けれど日常的に新車を試乗している人などよほどのマニア以外にはいない。買い換えの際、せいぜい数台に試乗してみるのが普通だろう。それどころか、販売店の人に聞くと、ロクに試乗もしないで購入を決める人が増えてきているという。もちろん、クルマそのものに対する興味の喪失も背景にあるだろうが、あまりの選択肢の多さが「自らの意思で選択する」という意欲を失わせる一因になっているのもたしかだろう。

選択する意思や意欲をなくしたとき、人はどんな購買行動に出るのか。さすがに「走ればなんだっていい」というレベルまで思考停止する人は少ない(しかし確実に増えてきているように見える)が、自分の価値観よりも、世間の評価やセールスマンのオススメ度、メーカーの知名度とそれに伴う安心感といった部分を重視する傾向が強まるように見える。

クルマを通して日常を楽しくするとか、非日常を味わうとか、そういう煩悩がないのならそれでもいい。大手国産メーカーの豊富なラインアップの中から、予算や用途に合うものを選んでおけば、まずもって向こう何年間か嫌な思いをすることはないだろう。

ここで語るべきは、おそらく大多数を占めるであろう、そこまで醒めてはいない人たちのクルマ選びだ。漠然と、いいクルマが欲しい、人と違う選択をしたいと思ってはいるものの、だったらどうすればいいのか具体的なアイディアが浮かばない。

そんな人たちが陥りやすい最大の罠がスペックだ。価格という数字にこだわるのは当然としても、排気量、最高出力、カタログ燃費、室内長、室内高といった、無味乾燥な数字に囚われる人のなんと多いことか。なぜか。数字はもっとも明快かつわかりやすいモノサシになり得るからだ。なかでも最近はエコカー減税の有無やカタログ燃費で絞り込む人が多い。A車とB車で迷ったら、わずかでもいいから燃費のいい方を選ぶというマインドである。となれば当然、カタログ燃費に滅法強い(実燃費との乖離率は大きい)ハイブリッドが注目を集めることになる。もうひとつが室内の広さ。同じ値段なら少しでも室内の広いクルマのほうが快適だろうという思い込みが、多くの人のクルマ選びに大きな影響を与えている。

カタログ燃費と室内の広さ。クルマ好きからしたら「まさか?」と思うかもしれないが、2013年の車名別販売ランキングベスト10を眺めれば、この2点がクルマ選びの2大ポイントになっていることがよくわかる。上から順にアクア、プリウス、N-BOX、ムーヴ、フィット、タント、ワゴンR、ミラ、ノート、デイズ。カタログ燃費と室内の広さをアピールしたクルマで埋め尽くされている。

正直、つまらないなぁと思う。が、もう少し突っ込んだ考察をすると興味深い事実が見えてくる。経済性を重視するなら、よほど走行距離の多い人でなければハイブリッドは割に合わない。ベスト10のうち実に6台を占める軽自動車にしても、どだい4人しか乗れないのに高い値段を払ってトールタイプを選んでいる人が多い。そう、必ずしも経済性だけでなく、みなさん自分なりにこだわって選んでいるのだ。ただ、あまりに選択肢が多いため、こだわりのポイントが燃費と広さという分かりやすい部分に偏ってしまっているだけなのかもしれない。

けれど、繰り返すが、クルマはどんなに安くても100万円。場合によっては500万円オーバー。いったん買ったら数年は付き合う、住宅の次に値の張る商品だ。何を選択するかによって数年間の「心持ち」は大きく変わる。まずはこの現実を直視することが、正しいクルマ選びの出発点となるはずだ。その上で、やっぱり自分に特別なこだわりはないというなら、自分の使い方にあわせてもっとも経済的なクルマを選ぶのが正解だ。実燃費がアクアを凌ぐ25㎞/ℓ程度に達するのに100万円で買えるアルトエコが、ほとんどの非コダワリ派にとっての最適解となるだろう。でもそれじゃあ面白くないよねということであれば、ものは試しに燃費と広さ以外の部分に注目してみてどうだろうか? いやいや、決してハードルは高くない。こだわりのポイントをこれまでとちょっと違う方向に向ければいいだけの話だ。

クルマ選びをするとき、僕が重視するのは「フィーリング」だと冒頭で書いた。どういうことかというと、国籍、動力性能、ボディのタイプやサイズ、燃費(極端に悪くなければいい)、ハイブリッドかどうか、ターボか自然吸気か、ATかMTかなどはほとんど重視しない。速くなくても、足が硬くても柔らかくても、音がうるさくても、トータルとして楽しく気持ちよく走れればいい。それが、ドイツ車からイタリア車にいったかと思えば、スポーツカーからコンパクトカーにいくという、一見節操のないクルマ選びをしてきた僕のポリシーだ。もちろん買える範囲の価格でという制約はあるが、新車という制約を外せば枠は格段に拡がる。その上で、絶対に譲れないこだわりとして持ち続けてきたのは、そのクルマのことを好きになれること。極端な話、たとえ欠点だらけでも一部分を深く愛せるなら買う価値はあると思っている。この部分こそが、多くの人のクルマ選びにもっとも欠けているものではないだろうか。

自分に似合うのか? なんて考えなくてもいい。手に入れてからクルマに似合うよう自分を変えていけばいいのだから。自分にとって便利なのか? 便利さだけがクルマの魅力じゃないですよ。そんなことよりなにより、ともに過ごす数年間、自分の気持ちをいかに上げてくれるのかを重視することの方が、よほど幸せで有意義なクルマ選びができると断言しておく。そしてそのためのお手伝いこそが、われわれ自動車メディアの存在意義なのだ。

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岡崎五朗/Goro Okazaki
1966年生まれ。モータージャーナリスト。青山学院大学理工学部に在学中から執筆活動を開始し、数多くの雑誌やウェブサイトなどで活躍。テレビ神奈川の自動車情報番組『クルマでいこう!』に出演中。


変わりゆく時代と向き合う

10年落ちのクルマに乗って、これで一生おえてもいいと満足する人間が言っても迫力に欠けるが、私は常に新しいものに敏感でありたいと思っている。なかでもニューテクノロジーにはことのほか惹かれる。スカイアクテイブからIH炊飯器まで、構造や仕組みはおろか、他との違いも、使い方すら理解できないモノも多いが、新技術搭載と聞いただけで心が弾む。

新しいものは時代が生み出す、時代を映す鏡だ。時代の落とし子は今をどんなふうに変えるのか、見ていたい。自分が産み落とした新しさをばくばく食べて古くしながら前に進む時代に寄り添っていたい。今を生かしてもらうシアワセに感謝して、そんな気持ちもあって新しさにアンテナを伸ばす。

携帯はi-phone、ただし最新アプリケーションは何も入れられない初代モデルだ。誰が新しさに敏感なのだと自笑するが、電話機能にトラブルはなく、勇んで買った最大の理由である日本語で書けるSMS機能にも支障はない。それで買い替える決心がつかない。息子に「洗濯機とスマートフォンを同じくくりで考えるな」と呆れられるが、購入は慎重に、これも信条。そうでないと今の時代、体も頭もお財布ももたず、最新モデルの奴隷になるばかりだ。

それでもニホンに住んでいたらこの携帯で留まっていられるかと考えると自信がない。ついでに言えば10年落ちのクルマで満足できるか、これにも自信が持てなくなる。

ヨーロッパでも新しいモノは入って来たり生まれたりするし、なによりEU統合を皮切りに驚くほど社会は変化した。それでもニホンと較べればウサギとカメ。新入りの数は少なく、情報も少なく、享受する層は一部、浸透の速度は限りなく遅い。イタリアで25年前に寿司が流行ると聞いた覚えがあるが、知れ渡るようになったのは数年前。その間、ニホンではティラミスから塩麹までいくつの食べものが流行り、すたったことか。

フランスで唯一、すんなり広まったのは私が知る限り、コンピュータ(電子メール)と携帯電話(SMS)だが、納税や書類の申請、学校の連絡、公共料金から郵便物まで、この2つをベースにしたシステムが割りに早く整ったために好むと好まざるとにかかわらず、これらなしには社会生活が機能しなくなった。それで普及に加速がついたのだろう。新しいモノというより新しいシステムの参入、いや侵入と呼ぶヒトも多い。あとはネスプレッソ、だろうか。

いずれについてもしかし、ニホンのようにみんながよく知っており、機種や機能の詳細情報がそこいら中に飛びかう、そういうことはない。ニホンを知るものには、もっとみんなでわーっと行きましょう、喝を入れたくなる緩さ。情報でも流行でも、メデイアが一斉に火に油を注ぐのがニホンだとすれば、ヨーロッパは一般人が揃って水をさす。「それってほんとにいいの?」、こんな具合に。

ヒトと同じことをしない。ヒトがいいと言うことには疑いを持つ、彼らの個人主義と懐疑心は侵略と譲渡を繰り返した大陸の歴史から生まれたのだと思う。今にいたるまで続くのは学校教育に受け継がれているからではないか。モノでもコトでも新入りを信用しないのもヨーロッパ人。重いものを重いと文句を言いながら軽いものを信用しない。彼らは変わらぬものを貴び、私たちは変わるものを進歩とする。ヨーロッパ人のモノとの関わり方を目にするたびに、私は自分が違う場所で育ったことを痛感する。

クルマの世界でいえば原発国フランスは当然、EV普及に力を入れるが、実際にはまだまだ現実性に乏しい。メールや携帯とは規模が異なる。それもあってインフラが進まない。なにより工事が遅いのはヨーロッパの特徴。コンセンサスが得られても事務手続きが複雑で遅く、窓口がばらばらで、担当者同士の連絡がわるく休みのヒトがいる。首尾よく工事に入ってもバカンスがあるし、昼も休憩があるし、夜は当然働かないし、期限が守られることはない。というよりビルから道まで工事が予定通り終わる国を私はニホン以外に知らない。デモで警官隊と衝突しない国も、ストがない国も、これほどヒトが物知りな国も、ニホン以外に私は知らない。

EV充電用の設備が出来上がってもそれが順調に機能するとは限らない。壊れていることも壊されることもフツウのこと。すぐに直らないことはもっとフツウのこと。能力の問題でもオルガナイズの不備でもない。壊れたものは残業してでもすぐ直す、こういう観念がないからだ。
一方で、個人の充電を考えるとこれまたほとんどのEU諸国で現実性に乏しいと思う。経済優等国のドイツではガレージに電源を引く工事に補助金が出ると聞くが、このドイツと北欧以外では考えらないし、それこそ共同住宅では個人所有でも<変える >ことには窓枠からアンテナにいたるまで様々な許可が必要だ。こうやって昔からの街の景観を守るのである。なにより消費電力より電気代の値上がりが懸念されるだろう。実際に上がらなくても、値上がったら、とまず考えて二の足を踏む。ということはプラグインハイブリッドも遠のく、というわけだ。

それでも今春、パリで大気汚染が悪化して自動車使用制限がかかったことから当地でもハイブリッドは大きな注目をあつめる。欧州の都市ではすでに多くのプリウスがタクシーに採用されているが、一般レベルでは興味はあっても値段と大きさ、あのデザインがネックと言われる。ちなみにハイブリッドといえばニホン、であることも、プリウスはトヨタ車であることも、みんな知っているとは私には思えない。たいへん残念。

夏の3週間の家族旅行と冬のスキーを欠かさない知り合いが言う。「ヤリスのハイブリッドは興味あるけど、まだ、高すぎる」。彼女の愛車は20万キロを越えたシトロエン サクソ。新入りモノを直ぐに信用しない彼らにとって、ハイブリッドすらまだ新入りのくくり。ハイブリッドとEVをごちゃ混ぜにしているヒトも少なくない。ウチのダンナはハイブリッドに乗るが、近所で未だに尋ねられる。「おたく、ガレージにコンセントひいたの?」 別に無知なのではない。興味がないことには無頓着なだけ。それにしてもニホンでハイブリッドが新入りの顔をしていたのはいったい、いつのことだったろう。

彼らの、時代に急かされない暮らしを羨ましく思う一方で、歯痒い気持ちも否めない。ニューテクもハイテクも 四角いスイカにいたるまで<昨日までなかったモノ >は今日を生きるからこそ享受できる産物。ガジェットからスタートしても大きな発明に、それこそ地球を救う何かに繋がるかも知れない。実際、亡くなった人の数に較べれば僅かな幸運であるにしても、オンボロ船から海に投げ出された移民の命を彼らが握りしめた携帯電話が救った。反政府デモでもテロでも拉致でもソーシャルネットワークがテレビよりずっと重要な役割を担う。

古いクルマをこよなく愛する徳大寺有恒氏は「昨日のクルマより今日のクルマの方が安全性が高まっている。だからクルマの変革を否定してはならない」、こう言ったものだった。新しいものは人類の幸福のために生み出される。だから昔のほうがよかったと言うでない。いい言葉だとしみじみ思う。現状にしがみついていては進歩はない。いつもみんなが何かしらの工夫を考えている国、ニッポン。誇りに思う。次は何が生まれるのか。だから新しいものから目が離せない。それでも——。

それでも、ニホンのモノ ラッシュを想うと時折、息が詰まる。モノを減らす特集が他の国の女性誌で成り立つだろうか。ワンコインショップの商品に質と耐久性を求められる国がほかにあるだろうか。携帯電話の料金プランは複雑すぎて、私の理解の限界をとうに越えた。モノマガジンのニューカマーのページには小さな写真がぎゅう詰めだ。毎月、これが繰り返されている。言葉を失う。

生まれたときからこんな刺激のなかにいる今の若者は外の世界をどう眺めているのだろう。今のニホンの便利さをフツウと思ったら世界に生きる場所はない。こんな余計なお世話を考えてしまう。

ニホンはこのままモノ ラッシュに加速をつけ、走り続けるのか、どこに向かって走っていくのか。世界からひとり飛び出して、一周も二周も先を行き、いずれひとりになるのではないか。ひとりになってもやっぱりモノを生み出し続けるのだろうか。

変革の時代。世界の多くの国は飢餓と貧困と人権を求めて闘っている。ニホンはモノと闘っている。

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text:松本 葉/Yo Matsumoto
自動車雑誌『NAVI』の編集者、カーグラフィックTVのキャスターを経て1990年、トリノに渡り、その後2000年より南仏在住。自動車雑誌を中心に執筆を続ける。著書に『愛しのティーナ』(新潮社)、『踊るイタリア語 喋るイタリア人』(NHK出版)、『どこにいたってフツウの生活』(二玄社)ほか、『フェラーリエンサイクロペディア』(二玄社)など翻訳を行う。