デザインとは何か ーミラノデザインウィーク2016「SETSUNA」に思うことー

更新日:2018/06/13

普段当たり前のように使っている「デザイン」という言葉。でも、デザインっていったい何なのだろう。デザインとは単に見た目のことなのだろうか。そんなことを考えていたある日、ミラノデザインウィークに外板に木を使ったというコンセプトカー、トヨタ「SETSUNA」が出展されると聞いた。イタリアにも暮らし、今は南仏に居を構える自動車コラムニスト松本 葉がミラノへと向かった。「SETSUNA」を見て、松本 葉が考えた“デザイン"とは。

text:松本 葉 [aheadアーカイブス vol.162 2016年5月号]

デザインとは何か ーミラノデザインウィーク2016「SETSUNA」に思うことー

私はデザインのことがわからない。自動車デザインのことも、見事に何もわからない。

それでいてデザインという言葉を毎日のように連発する。デザインってなんだろうと考えながら、いや考えずに、デザインという言葉を大売り出ししている。いったいどれくらい使っていることか。

日本を代表するグラフィックデザイナー、原 研哉氏が記した『デザインとはスタイリングではない。ものの形を計画的・意識的に作る行為はデザインだが、それだけではない』なる一文を読んだときは、だから、目から鱗が落ちる想いだった。彼は続ける。

『デザインとは生み出すだけの思想ではなく、ものを介して暮らしや環境の本質を考える生活の思想である。したがって作ると同様に気付くということのなかにもデザインの本意がある』(【日本のデザイン|美意識がつくる未来 】岩波新書)

●トヨタ「SETSUNA」
全長:3,030mm 全幅:1,480mm 全高:970mm
ホイールベース:1,700mm 乗車定員:2名
パワートレーン:電動モーター
樹種 : 外板「杉」、インパネ・シート「栓(せん)」、ステアリング「檜」、フレーム「樺」、フロア「欅」


デザインの本意が気付くということのなかにもあるならば、と私は一台のクルマを想う。コンセプトはこれ、ターゲットとする顧客はこの層、値段を見て、ライバルとの違いを考え、社会的な存在としてのこのクルマのポジションを思う。そして結論。「ならばこのクルマのデザインはよろしいのではないか」、ここまでたどり着き、辺りを見回し、そして言う。「なんちゃって」 

だったら好きか嫌いか、それくらい述べてみようじゃないかと思うのだが、バッグならともかく自動車のような工業製品になると自信がないゆえ、相手によって意見を変える。

▶︎トヨタ「MIRAI」。“知恵をカタチに”というデザインフィロソフィーのもと、最先端の技術を一目見ただけでユーザーに伝わるようデザインに結実させたという。


トヨタMIRAIを見て「いかにも未来を感じるいいカタチだ。オレは好きだな」と言うヒトがいれば、「そうだよね。アタシも好き」、こういうことをしゃあしゃあと言い、「せっかくなんだから、もうちょっとどうにかならなかったのかね。オレは嫌いだ」、こう言うヒトの前では「あのクルマは醜い、アタシも嫌い」とコロリと意見を変える。

それでいて、『MIRAIのデザインは好き嫌いが分かれるところであろうが』という自動車雑誌の一文を読むと、ジャーナリストがこういう逃げ方をしていいと思っているのかと、猛然と腹をたてる。お前の意見を言えと雑誌に向かって悪態をつくが、悪態をつく自分に意見はない。

デザインがわからないのは、おそらく私が育った時代と無縁ではないはず。昭和の高度成長期のニホンは戦後の貧しさと悔しさをバネに誰もが働きに働いて豊かな暮らしを求めたが、そこにはまだデザインという概念も、いや言葉すら一般的には浸透していなかった。大きければなんでもよろしい。まずは氷の作れる大きな冷蔵庫。

この時代、『ボロは着てても心は錦』と歌ったのは水前寺清子だったが、見た目はみすぼらしくても心は豊かでいましょうね、とチータはニッポン人を励ました。この、〈ボロを着てても心は錦〉は、しかし、しだいに一人歩きを始める。

このフレーズは、ヒトを外見だけで判断してはいけない、となり、それがいつしかボロを着ている人は心が錦で、錦を纏う人は頭はカラなる評価を生み出した。実際、私が学生だった頃、着るものに凝る男はチャラチャラした奴と呼ばれたのである。

着るものに凝ってどこが悪い、それを示すにはイデオロギーが必要で、ヒトと違う格好をするにはイデオロギーを纏わねばならなかった。見た目の美しい人は清い心を持たねばならず、心が清くない美人は糾弾された。「ちょっときれいだと思って。なに、あの態度」 美人であることもしんどいニッポン。

▶︎ジョルジェット・ジウジアーロのデザインによる名車、いすゞ「117クーペ」。1966年3月のジュネーブショーで発表され、コンクール・デレガンスで優勝した。


見た目というのはもっと単純なことではあるまいか。かっこいい、美しい、不細工だ、なぜこの3つに集約できぬのか。なぜ精神性まで持ち出さねばならぬのか。こう考えながらも、デザインという言葉が出てくると腰が引ける。それはデザインは過剰の産物、オーバーフローなのではないか、こんな疑いから逃れられないからだった。これもあの時代に育った、そういうことだと思う。

おそらく3歳にも満たない、ごく幼い頃の記憶だが、横浜駅の地下道には足のない帰還兵がいて物乞いがいて、昼間、白服に身を包んだ兵士やうずくまる乞食の前を通ると必ずその晩、彼らが夢に出て来てうなされた。私が子供時代、もっとも恐ろしかった夢。

自動車雑誌『NAVI』のスタッフとなり、クルマのデザインを評価する作業に関わるようになったとき(私は点数表を整理しただけだが)、いつもなぜか、彼らの姿が思い出された。

その日の食事に事欠く人々の前でもデザインは力を持ち得るのだろうか。

▶︎同じくジウジアーロによる「デロリアン (DMC-12)」(1981年)


「飢えた子供が一杯のスープを飲むとき、すくうスプーンのカタチがよくなかったら、スープはこぼれ、子供の口に入らない。スープの皿が空になったとき、子供はスプーンに目を向けるかも知れない。目を向けたスプーンが美しいものだったら子供はたとえ一瞬でも、目を輝かせることだろう。スプーンのカタチが子供を貧しさから救い出すわけではない。それでも私はデザインは貧しい子供の前で無力だとは思わない」

ここで〝私〟と言ったのは自動車デザイナーの大家、ジョルジェット・ジウジアーロ。今から15年ほど前、当時、鈴木正文氏が率いていた自動車雑誌『ENGINE』の仕事でジウジアーロにインタビュウした。

鈴木さんは『NAVI』時代の上司、私の育ての親。それでインタビュウにあたって入念に、いや気楽に打ち合わせを行ったのだが、私が「デザインってオーバーフローですかねぇ」と彼に問うと、鈴木さんはこう答えた。

「それがわかればなんか今後、キミが足を置く場が出来そうだね。ジウジアーロに聞いてみろよ」

尋ねた結果、かえってきたのが前述のスプーンの話である。

▶︎ロータス「エスプリ」(1976年)。直線的でエッジの効いたシンプルなデザインは、今も多くの人を魅了する。


ちなみにこの時の取材ノートを見ると、欄外に雑な文字で、デザイン=funzionalità、カタチ=bellezza puraと書いている。funzionalitàとは機能性を意味し、 bellezza puraはピュアな美。

イタリア語で記しているところを見ると、インタビュウ時に教えられたこと、これは間違いないが、同席したスタッフの言葉か、マエストロ自ら言われたことか、記憶は曖昧。それでもこのノートを眺めるたびにカタチをピュアな美と言い切る潔さに感銘を受ける。

私はデザインがわからない。わからないが、デザインと聞くと、いつもジウジアーロの〝スプーンの話〟を思い出す。自分が張り切っているとき、スプーンはフェラーリ250SWBに変わる。いやデイトナ。アルファロメオ4Cもたいへん好き。

郷愁感をかんじるときはチンクエチェントやランチア・デルタになって、渋い気持ちのときはチシタリアなんかを思い出す。なぜかフィアット・ムルティプラも浮かぶ。節操のないイマジネーション。すると構えた肩の力が身体からすっと抜け、デザインってもしかしたら楽しいものではないかと思い始める。

空腹に淀んだ目をした子供に、一瞬でも幸福な気持ちを与えられるモノが今の世にいったいどのくらいあるだろう、そんなことも考える。

デザインの楽しさはもしかしたらデザインが時代を映す鏡だからかも知れない。鏡が時代を映し出すなら、今、そこに映っているのは私たち自身だ。デザインを見ることはつまり、自分自身を知ること。ちょっと怖いけど、見てみたい。私たちは自分が生きる時代のなかでどんな顔を持っているのだろう。

一方で、デザインが今を映す鏡であるならば、過去を教え、未来に想いを馳せるものとも言えるだろう。ヒトから生まれなかったヒトがいないように、過去を持たない今はない。過去が今を作り出したなら、作り出された今は未来を生み出す。今のデザインを見ることは未来を探すこと。いや、どんな未来を望むのか、私たちが願う未来が今、提出されるデザインのなかに潜んでいるはずだ。

▶︎BMWのコンセプトカー「GINA(ジーナ)」
伸縮性のある布「ライクラ」で覆われ、車体の形を変えることができるという。チーフデザイナー、クリス・バングル氏率いるチームの手によるもの。


イタリアはミラノで開かれる 〝ミラノデザインウィーク2016〟に来ている。トヨタ自動車が住友林業と外板を共同開発した、SETSUNA(電動モーターを搭載)というコンセプトカーが出品されていると聞き、これが見たくてやって来た。

住友林業は国内最大手の木造注文住宅メーカー。扱う木材の質の高さで知られている、のは皆さんご承知の通り。今回、このコンセプトカーの外板やフレームに使われているのはもちろん、スミリンの得意とするウッド。

私の記憶に間違いがなければ、ショーカーやコンセプトカーの外板やフレーム全体にウッドを用いたものはこれまでなかったと思う。素材の面白さで思い出すのは、以前、BMWが発表したGINAで、これはボディにストレッチ素材の布(ライクラ)を用いたショーカーだった。

当時のBMWのチーフデザイナーはクリス・バングル。〈デザイン〉を言葉で語ることを得意とする彼が陣頭指揮をとったこともあって話題になったが、実際、布の効果は抜群で、ボデイに 〝皺が寄ること〟が新鮮で感動した覚えがある。

代わってSETSUNAは基本を張りとするウッド、布とは対極にある素材だ。作り手が目をつけたのは気象条件や使用方法によって風合いが変わる木製製品の特徴で、手入れを続ければ深みが増すことに注目し、代々、受け継がれる器のごとく、家族で使い続けることによってクルマに新しい価値観を持たせることを狙いとしている。

外板に使われているのは杉。フレームには樺が用いられているが、そんなことより、と、杉と樺の姿が直ぐには浮かばぬ私が興味深く感じるのは、組み付け構造。日本家屋で梁や鴨居をつくるときの接合方法である〈送り蟻〉と呼ばれる日本古来の伝統技法が用いられている。

これは、釘やネジを使わずはめこむ手法で、メインテナンスに際してはこの部分だけ交換することも可能という。加工の跡が見えないことが特徴、つまり見た目がとてもきれいなのである。それにしても送り蟻(オクリアリ)とはなんと不思議な名前だろう。目にしたり記したりするたび、さまざまなイマジネーションが湧いてくる。

私が日本に戻っていつも、これぞニホンだと感激するのはプレゼントなどの包装方法。フランスでは包み紙をギリギリに切って、セロテープをベタベタはって仕上げるが、ニホンのそれは紙を布のように扱いながら、端を曲げたり織り込んだりしながら最小限のセロテープで留める。

当地では、丸いものの包装はガサガサ、抱えると紙の緩みが音をたてるが、日本のそれは紙が扇のように重なって織り込まれ、とても静かだ。SETSUNAを見ていると同じことを感じる。

ボディシェイプは小船を想わせるが、座ったヒトの、体の線に沿う風呂桶のようでもある。それが私には微笑ましいが、さて風呂桶を知らぬ外国人にはどう映るのだろう。木の家で育った者にはバリエーションのある木の色合いも懐かしい。それは明らかに北欧の均一の木の色とは一線を画す。

1978年にベルトーネが発表したランチア・シビロ、'80年にジウジアーロ率いるイタルデザインが製作したメドゥーザ(メカはランチア・ベータ・モンテカルロ)、'89年の東京モータショーでお披露目されたピニンファリーナの手になるフェラーリ・ミトス(ベースはテスタロッサ)、私自身の心に残るショーカーはこの3台、いずれも強い個性に今でも写真を見るたび圧倒される。

そこにあるのは唯一の存在である自信。ミトスを最後に印象深いショーカーが少なくなって来ているのは、生産されてこそ、つまりお金を運んでこそナンボ、そんな風潮に押されてのことだろうか。

▶︎コンセプトカーの名前がそのまま開発者の思いでもある。一瞬(刹那)の積み重ねが永遠へとつながる。クルマを、新しさだけを追い求める工業製品としてではなく、長く受け継いでいくことで新たな財=時間財となっていくものと捉える。そんな考えを具現化したのが「SETSUNA」である。


SETSUNAのウッドをもって現実性に欠けると評することも、生産モデルになるかを重要視することもまったくもってナンセンス、私はこう思う。生産は商売、実験や提案に商売を持ち出しては自ら可能性を断つようなもの。

ショーバイのない場所にどれくらいのお金を注ぎ込み、ヒトを動員し、真摯に取り組むか、そこに企業の責任があり、価値があり、なにより企業の未来があるのではないか。極端に言えばショーバイを問わない場所に地球の将来がある、そんな気さえする。

SETSUNAという車名は 〝刹那〟からとられたもの。一瞬一瞬の短い時間の繰り返しのなかで、かけがえのないものとなって欲しいという思いを込めて名付けられたと、プレスリリースには記されているが、そういえば冒頭で引用した原 研哉氏の本のなかにこんな一文があった。

『白木のカウンターに敷かれた一枚の白い紙や、漆の盆の上にことりと置かれた青磁の小鉢、塗り椀の蓋を開けた瞬間に香りたつ出し汁のにおいに、ああこの国に生まれてよかったと思う刹那がある』

SETSUNAは私の中で刹那となり、それは静かに日本という国に変わっていく。

デザインウィークに行ってデザインがわかるようになったわけではない。それどころかデザインの難しさに驚くばかりだ。デザインすることの難しさ、それを受け止めることの難しさ。それはつまり、今という時代の難しさに他ならない。

技術の進歩は我々の生活に大きな変化をもたらした。大きな変化はしかし、私たちの暮らしを複雑化した。複雑さを享受できる人間と振り落とされる人間とに分別し、万人に平等に分配されたわけではない。

ソーシャルネットワークは世界の片隅でおきた出来事を瞬く間に伝え、私たちの日常に些細な情報が波のように押し寄せる。それでもいまだ一杯の水の確保に難儀するヒトがいて、戦火から逃れる子供がいて、オンボロ船に命を託す難民がいる。

▶︎アルミケースの中の短針は時間(1周=24時間)、長針は月日(1周=365日)、カウンターメーターは年を刻む。ステアリングホイールやドアミラーなどには「拭き漆」を採用。時を経て、使い込まれることで、風合いが生まれてゆく。


デザインウィークで実感したのは、喜ばしさと戸惑いと矛盾にあふれる今の世界にあって、地球の将来を我が事ととらえる企業があるということ。そこには痛みを感じる人々がいて、その痛みを希望に変えようとする力が人間には備わっている、それを見せる。

なによりさまざまなアイデアが提出されていることが頼もしく思われた。石を道具に変えた原始時代から、新しさはいつも、人間が求める必然性とそれを具現化するアイデアから始まっている。

生きるということにヒトは留まっているわけにはいかない。好むと好まざるとに関わらず生きる我々は昨日から今日へと歩き、明日に向かう。時に引き摺られるようにして、時に置いて行かれそうになったり時を追い越そうと躍起になったりしながら明日を目指す。デザインウィークで見たモノには明日を心豊かにする希望があって、クルマは、そんな明日に向かうための足となる可能性を秘めている。

技術が自動車を生み出したのではない。スピードを携え此処ではない何処かへ、人間の移動への欲望と移動を可能とするモノへの執着が技術を生み出し、クルマを育てたのだと私は思う。作り手と乗り手の顔が見えるクルマというものが、だから好き。SETSUNAの試みは今は現実からは遠い提案に見えても、ヒトの生み出した提案のなかに潜む 〝小さな提案 〟が将来を担う力を持つかも知れない。

とても楽しいショーだった。


*今回、トヨタと車両外板を共同開発したのは住友林業。コンセプト具現化のため木部の設計、加工、組み立ての提案の他、フレームや各種パネルなどの樹種の選択、木構造についての知識の共有などを行った。

SETSUNAに取り入れられた「送り蟻」や「くさび」など釘やネジを使用しない伝統技法は、住友林業が住宅建築において活用してきた技術でもある。住友林業は1691年に創業。日本の国土の1/900にあたる社有林を保有し、持続可能な森林管理を行っている。http://sfc.jp/

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text:松本 葉/Yo Matsumoto
自動車雑誌『NAVI』の編集者、カーグラフィックTVのキャスターを経て1990年、トリノに渡り、その後2000年より南仏在住。自動車雑誌を中心に執筆を続ける。著書に『愛しのティーナ』(新潮社)、『踊るイタリア語 喋るイタリア人』(NHK出版)、『どこにいたってフツウの生活』(二玄社)ほか、『フェラーリエンサイクロペディア』(二玄社)など翻訳を行う。