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「免許を返せ」と何年言っても返さなかった親が、「1か月だけ返してみて」には応じた。説得より強かった、たった一語の違い

「免許を返せ」と何年言っても返さなかった親が、サムネイル

滋賀県警の「お試し自主返納」制度をきっかけに、高齢者だけでなく全ての人が持つ「手放せない」心理を解きほぐす。

Chapter
「お試し」で返納率が10倍以上になった
なぜ「返せ」では動かないのか
「持っているものを失う痛み」は、得る喜びの2倍重い
「あとで戻せる」が、人の足を一歩前に出す
これは、高齢者だけの話ではない
「免許を返せ」と何年言っても返さなかった親が、サムネイル

親が八十歳を過ぎたあたりから、多くの家庭で同じ会話が繰り返される。

「そろそろ運転、やめたら」「まだ大丈夫だ」。ニュースでアクセルとブレーキの踏み間違いや高速道路の逆走が流れるたびに、子どもは不安になって切り出す。だが、何度言っても親は首を縦に振らない。怒り出すこともある。話し合いは平行線のまま、また半年が過ぎる。

ところが、ある滋賀県の取り組みに参加した高齢者の二割が、自分から免許を返した。家族がどれだけ説得しても動かなかった人たちが、である。

何が違ったのか。鍵は、ほんのわずかな言葉のすり替えにあった。「返してください」ではなく、「1か月だけ、返したつもりで暮らしてみませんか」。この一語の差が、人の決断をここまで変える。そして、これは高齢者だけの話ではない。車を持っている人なら誰でも、自分の中に同じ仕組みを抱えている。

「お試し」で返納率が10倍以上になった

滋賀県警が「お試し自主返納」という制度を始めたのは、令和5年度のことだ。

仕組みはシンプルで、65歳以上の人が、1か月程度のあいだ「自主的に車を運転しない生活」を送ってみる。免許を本当に返すわけではない。あくまで「返したつもり」で、公共交通機関がどれくらい使えるか、家族にどこまで頼れるかを、自分の体で確かめてみる。それだけの制度だ。

滋賀県警「お試し自主返納」特典イメージ

参加すると、「お試し自主返納証」のほか、反射材付きのエコバッグやたすき、地域のコミュニティバスやタクシーの回数券、鉄道会社の乗車券割引、鍼灸マッサージの施術割引、さらには精肉店の肉の増量サービスといった特典が受け取れる。返納を迫る重々しさではなく、ちょっとした地域のおまけ付きイベントのような軽さがある。

注目すべきは、参加した人たちのその後だ。令和6年度の参加者のうち、その年度末までに実際に免許を返納したのは22.0%。令和7年度も21%だった。五人に一人が、お試しのあとで「もう返してもいい」と決めている。

この数字がどれほど大きいか。滋賀県内に住む65歳以上の免許保有者は24万人を超え、そのうち1年間で自主返納したのは4594人、率にすると1.9%にすぎない。つまり、何もしなければ100人に2人しか返さないところに、お試しを挟むだけで、5人に1人が返すようになった。10倍以上の差である。

しかも参加希望者は年々早く埋まっている。初年度は途中で定員を追加するほど好評で、令和7年度は年度の半ばには先着200人の枠が埋まった。「返納を迫られるのは嫌だが、お試しなら参加してみたい」と感じる人が、それだけ多いということだ。

なぜ「返せ」では動かないのか

ここで一度、立ち止まって考えてみたい。なぜ正論で説得しても親は動かないのに、お試しという回り道だと動くのか。

家族はたいてい、こう説得する。「事故を起こしたら取り返しがつかない」「人をはねたら一生後悔する」。これは正しい。正しいのに、なぜか効かない。

理由のひとつは、当の本人が自分の運転をまったく危ないと思っていないことにある。新潟県内で行われたあるアンケートでは、70歳以上の高齢者の38%が運転に「不安を感じることはない」と答え、「あまりない」を合わせると64%にのぼった。三人に二人が、自分は大丈夫だと感じている。危ないという前提を共有していない相手に「危ないからやめろ」と言っても、話がかみ合わないのは当然だ。

だが、もっと根の深い理由がある。それは、人間が「いま持っているものを手放すこと」に対して、理屈を超えた強い痛みを感じるようにできている、という事実だ。

「持っているものを失う痛み」は、得る喜びの2倍重い

ここで、車から少し離れて、人間の心の話をしたい。

損失回避・保有効果の概念イメージ

経済学に、ノーベル賞を受けた心理学者ダニエル・カーネマンらが示した「損失回避」という有名な考え方がある。ものすごく雑に言えば、人は1万円もらう嬉しさよりも、1万円を失う悔しさのほうを、だいたい2倍くらい強く感じる、というものだ。得より損のほうが、心に重くのしかかる。

これと深く結びついているのが「保有効果」と呼ばれる現象だ。同じく彼らが行った実験では、被験者にマグカップを配って「いくらなら売るか」と聞くと、まだ持っていない人が「いくらなら買うか」と答える額の、およそ2倍の値段を付けた。たった数分前に手にしたばかりのマグカップですら、いったん自分のものになると、手放すのが惜しくなる。これが人間の標準仕様である。

もうひとつ、「現状維持バイアス」という言葉もある。人は、よほどの理由がない限り、いまの状態を変えない選択を過剰に選んでしまう。変えることには決断のエネルギーが要るし、変えた結果が悪かったらどうしようという恐れもつきまとう。だから、たいていの人は「とりあえず今のまま」を選ぶ。

免許の返納は、この三つの心理が一気に襲いかかる、人間にとって最も難しい決断のひとつだ。「免許」という、何十年も自分の一部だったものを失う。失う痛みは得る喜びの2倍。しかも一度返したら二度と戻らない、不可逆な決断である。家族が「危ないから」と正論を並べても、本人の心の中では「長年連れ添ったものを、取り返しのつかない形で失え」と迫られているに等しい。動けなくて当たり前なのだ。

「あとで戻せる」が、人の足を一歩前に出す

では、お試しの何が、この重い心の鍵を開けたのか。

答えは「あとで戻せる」という安心感にある。

お試し自主返納は、免許を本当に手放すわけではない。1か月の体験が終われば、いつでも元の生活に戻れる。失うものは何もない。だから保有効果も損失回避も、ほとんど発動しない。心理的なハードルが、いったんゼロに近いところまで下げられている。

これは、私たちが日常で何度も経験している仕掛けと同じだ。動画配信サービスの「1か月無料お試し」。通販の「30日間返品保証」。これらはすべて、「気に入らなければ元に戻せます」と約束することで、「お金を失うかもしれない」という恐れを取り除き、人の最初の一歩を引き出す設計になっている。お試し自主返納は、この仕組みを免許返納に持ち込んだものだといえる。

そして、ここに静かな逆転がある。

「返せ」と迫られているうちは、本人は車のある生活を守ろうと身構える。守るべきものとして車が見える。ところが、いったん「お試し」で車のない生活を体験してみると、見える景色が変わる。バスの時刻表を調べ、家族に送ってもらい、近所のスーパーまで歩いてみる。すると、ある人は「思ったより不便じゃなかった」と気づき、別の人は「家族に安心してもらえるなら、これでいい」と思う。実際、滋賀県警のアンケートには「家族に安心を与えられることがわかった」という声が寄せられている。

守るものとして握りしめていたはずの免許が、お試しを経ると、「もう手放してもいいもの」に変わる。説得という正面突破では決して動かせなかった心が、回り道をしたら自然にほどけていく。

これは、高齢者だけの話ではない

ここまで読んで、「自分の親には関係するけれど、自分にはまだ先の話」と思った人もいるかもしれない。だが、手放せない心の仕組みそのものは、年齢に関係なく、車を持っている人すべてに備わっている。

たとえば、めったに乗らないのに手放せないセカンドカー。維持費を考えれば手放したほうが得だとわかっていても、いざ売るとなると惜しくなる。あるいは、引っ越しや子どもの独立で車が要らなくなったのに、なんとなく持ち続けている人。冷静に計算すれば不要でも、「なくなったら困るかもしれない」という現状維持バイアスが、決断を先延ばしにさせる。査定額に「思ったより安い」と不満を感じるのも、自分が持っているものを実際の市場価値より高く見積もる保有効果が働いているからだ。

つまり、車を手放せないのは、意志が弱いからでも、計算ができないからでもない。人間がそういうふうにできているからだ。

だとすれば、自分や家族が大きな決断を前に動けなくなったとき、責めても急かしても意味がない。正論をぶつけるほど、相手は守りに入る。代わりに有効なのは、「ためしに、1か月だけやってみたら」と、可逆な小さな一歩を差し出すことだ。失うものがないとわかった瞬間に、人は驚くほど軽く動き出す。

滋賀県のあるお年寄りが、何年も家族の説得をはねつけたあとで、「1か月だけ」という言葉に応じて自分から免許を返した。その背中を押したのは、説得の正しさではなく、「いつでも戻れる」という安心だった。

人を動かすのは、たいてい正論ではない。逃げ道のほうである。

参照元: 産経ニュース「車なし生活悪くない 滋賀県警『お試し返納』で割引特典、参加シニア22%が免許手放す」(2026年6月17日)/ WEB CARTOP「高齢者の免許返納は簡単な話ではない! 地方社会における高齢者とクルマの歩み方」(新潟県内アンケート結果に関する報道、2025年)/ Daniel Kahneman & Amos Tversky, "Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk," Econometrica, 1979. / Daniel Kahneman, Jack L. Knetsch & Richard H. Thaler, "Anomalies: The Endowment Effect, Loss Aversion, and Status Quo Bias," Journal of Economic Perspectives, 1991. / William Samuelson & Richard Zeckhauser, "Status Quo Bias in Decision Making," Journal of Risk and Uncertainty, 1988.

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