中国のEVメーカーが、日本の軽自動車に「ラッコ」と名づけた。海の生き物で車を埋め尽くす、その静かな戦略
BYDが日本向け軽EVに「ラッコ」と命名した理由。トヨタの冠、ランボルギーニの闘牛、スバルの星に続く、車名に込められたブランディングとマーケティングの秘密を解き明かす。
7月の終わり、ひとつの車の名前が発表された。「ラッコ」。中国の自動車メーカーBYDが、日本の軽自動車の規格に合わせて専用に開発した電気自動車である。カタカナで「RACCO」。あの、貝を石で割って食べる、水族館で仰向けに浮かんでいる、あのラッコだ。
車の名前としては、正直なところ、少し気の抜けるひびきがある。速そうでもなければ、強そうでもない。軽自動車という、街の細い道と狭い駐車場のための小さな車に、水に浮かぶ動物の名前をつける。ふざけているのか、と思った人もいるかもしれない。
だが、これはふざけているのではない。むしろ、車の名前をめぐる商売のなかで、いちばん計算された部類の一手だ。そしてこの一手をたどっていくと、「車の名前はどうやって決まるのか」という、ふだん誰も気にしない場所に、思いのほか深い穴が空いていることに気づく。
ラッコは、単体ではなく「群れ」の一員だった
まず押さえておきたいのは、ラッコが一頭だけで泳いでいるわけではないということだ。
BYDという会社は、乗用車の名前を「海の生き物」でそろえている。すでに日本でも売られている車に「ドルフィン」(イルカ)があり、「シール」(アザラシ)がある。中国本国や他の国では「シーガル」(カモメ)、「シーライオン」(アシカ)といった名前の車も走っている。デザインの考え方にも「オーシャンエステティック(海洋美学)」という名前がついている。
つまりラッコは、イルカやアザラシの群れにあらたに加わった、海のいちばん新しい住人なのだ。
さらにこの会社には、別の名前の群れもある。「王朝シリーズ」は中国の歴代王朝の名を冠している。秦、漢、唐、宋、元。海の生き物とは対照的に重厚で格式がある。ひとつの会社が、片方で軽やかな海の世界を、もう片方でどっしりした歴史の世界を用意している。
名前は行き当たりばったりでつけられているのではない。あらかじめ用意された「世界観」の器に、新しい車が一台ずつ注がれていく。ラッコは、そのいちばん新しい一滴だった。
「テーマで名前をそろえる」のは、新参者の発明ではない
海の生き物で車名をそろえると聞くと、新しいEVメーカーらしい発想に思えるかもしれない。だが、これはまったく新しくない。車の歴史のなかで何度も繰り返されてきた古典的な手口だ。
いちばん分かりやすいのはトヨタ。クラウン、コロナ、カローラ、カムリ。この四つには共通点がある。すべて「冠(かんむり)」に関係している。クラウンは王冠。コロナはラテン語で光の冠。カローラは花の冠。カムリは日本語の「冠」のローマ字だ。
ヨーロッパにも有名な例がある。ランボルギーニは車の名前をほぼすべて「闘牛」からとっている。ミウラ、ディアブロ、アヴェンタドール、ウラカン。創業者が牡牛座生まれで闘牛が趣味だったからだ。
ちなみにランボルギーニには「ウラッコ」という車がかつて存在した。響きは「ラッコ」とそっくりだが完全に無関係で、意味は正反対。片や荒ぶる牛、片や水面に浮かぶ動物。名前というのはこういう偶然も起こす。
星の名前でそろえた会社もある。スバルという社名そのものが牡牛座の「すばる(プレアデス星団)」の由来だ。六つの星のエンブレムはこれを表している。
つまり、「ひとつのテーマで名前の群れをつくる」手法は、王冠のトヨタ、闘牛のランボルギーニ、星のスバルと、国やジャンルを超えて使われてきた。中国のEVメーカーが海の生き物でそろえるのは、その長い系譜のいちばん新しい1ページにすぎない。
なぜ、わざわざテーマでそろえるのか
ここで素朴な疑問がわく。名前なんて一台ごとに好きにつければいいのに、なぜ「冠」や「闘牛」や「海の生き物」といった制約をわざわざ課すのだろうか。
理由は、人間の認識の仕組みにある。ばらばらの単語より、意味のつながった単語の種類覚えやすい。「クラウン、コロナ、カローラ」と並べられると、三つ目の名前まで「同じ群れだ」と受け止めてしまう。一台の有名車がその名前ごと後続車に信用を貸してくれる、という仕組みだ。
もうひとつ、テーマは自己紹介の役割も果たす。闘牛の名前を並べる会社は「速くて荒々しい」と伝わるし、海の生き物でそろえる会社は「親しみやすく環境に優しい」と感じさせる。一台一台の宣伝を打たなくても、名前の群全体でイメージをにじませることができる。
BYDが日本の軽自動車に「ラッコ」を選んだのはここに深く関係する。中国の超巨大メーカーが日本に乗り込んでくると聞けば多くの人は身構える。そこに「ラッコ」という安心の名前が差し出される。石で貝を割り、仰向けに浮かび、手をつないで眠る動物。強さや速さを一切ちらつかせない、あの脱力した愛らしさ。これほど警戒心を解くのに効果的な名前はそうない。
速さを売るメーカーは闘牛を選ぶ。街に溶け込みたいメーカーは水に浮かぶ生き物を選ぶ。名前の選び方そのものが、車が誰に向けてどんな顔で近づこうとしているかを語っているのだ。
名前は、あなたの決定にこっそり効いている
ここまで読んで「命名の話は分かったけれど自分には関係ない」と思うかもしれない。ところがいちばん名前に動かされているのは車を作る会社ではなく、買う私たちのほうだ。
車を選ぶとき、数字や値を比較して理屈で選んだつもり。しかしその手前で名前の響きがこっそり作用している。強そうな名前には頼もしさ、ていねいな名前には安心感。その「なんとなく」は、メーカーが何十年もかけて育ててきた名前の世界観が植え付けたものだ。
王冠の名を聞いて格の高さを感じるのも、闘牛の名前に胸が高鳴るのも、ラッコで肩の力が抜けるのも、すべて設計された反応である。それは嘘ではない。名前が呼び起こす感情は、運転して感じる満足の一部にもだってなる。愛着はそういうところから静かに育っていく。
次に街で車を見かけたら、名前を少しだけ味わってほしい。それは冠の群れの一員なのか、闘牛の末裔なのか、海に放たれた新しい生き物なのか。名前ひとつの向こうに、メーカーが「自分をどう見られたいか」を必死に設計した時間が透けて見えてくる。
日本の狭い道を、これから小さな「ラッコ」が走り始める。名前を選んだ人たちは、私たちがその車を怖がらず、少し笑って迎え入れることを最初から計算していたのだ。
参照元:BYD JAPAN プレスリリース「BYD、新型軽EV「BYD RACCO」の国内販売を開始」(2026年7月28日)/BYD RACCO コンセプトサイト/トヨタ自動車 公式FAQ「カローラの名前の由来」/ドライバーWeb「クラウン・コロナ・カローラの命名の由来」(豊田英二氏の言葉)/WEB CARTOP「スバルの車名・社名の由来(プレアデス星団)」「ランボルギーニの車名が闘牛に由来する理由」/価格.comマガジン「BYD Japan 広報インタビュー(海洋シリーズ・王朝シリーズ)」























