「試験に合格したんだから、もう安心」が、いちばん危ない。実車試験を通った高齢ドライバーの事故が、受けなかった人より多かった理由
警察庁の追跡調査で明らかになった衝撃のデータ。運転技能検査に合格した高齢ドライバーのほうが、受けなかった人より事故が2.8倍も多かった。合格がもたらす「お墨付きの錯覚」と、制度の見直しの行方を考える。
親に運転をやめてほしい、と思ったことがある人は少なくないはずだ。ニュースでは、アクセルとブレーキの踏み間違い、駐車場での暴走、高速道路の逆走が、季節を問わず流れてくる。そのたびに、実家の車のことが頭をよぎる。
そんな不安にこたえる仕組みとして、4年前にひとつの制度が始まった。75歳以上で一定の違反歴があるドライバーは、免許の更新時に、実際に車を運転する試験を受けなければならない。教習所のコースで一時停止や右左折をこなし、減点方式で採点される。「運転技能検査」と呼ばれるこの実車試験は、危ない人を運転席から降ろすための、いわば最後のふるいとして設計された。
ところが2026年6月25日、警察庁がその追跡調査の結果を公表した。そこに出てきた数字が、制度の前提を静かにひっくり返していた。
この試験に合格した人たちのほうが、試験を受ける必要がなかった同世代より、その後の事故が2.8倍多かった。
合格したのに、だ。読み間違いではない。落ちた人の話でもない。ちゃんと通った人たちの話である。
「ふるい」を通り抜けた人が、なぜいちばん事故るのか
数字をもう少し正確に置く。警察庁は、2023年の夏に運転技能検査に合格した5270人と、違反歴がなく通常の高齢者講習を受けただけの8233人を、その後2年間にわたって追いかけた。すると、合格者の10万人あたりの事故件数は1575件。比較された無違反のグループは571件だった。差はおよそ2.8倍。交通違反で捕まった割合も、合格者のほうが1.9倍多かった。年齢を分けて見ると、75歳から79歳ではおよそ4.5倍にもなっていた。
ここで多くの人が「試験がザルだったのでは」と考える。実際、合格率は9割前後と高い。受けた人のほとんどが通っている。だから「もっと厳しくすれば解決する」と思いたくなる。警察庁も、検査の項目や採点方法を見直すために、7月に有識者会議を立ち上げ、8月をめどに報告書をまとめると言っている。
けれど、この数字の本当に面白い、そして少し怖いところは、試験の難易度の話だけでは説明しきれないところにある。
そもそも、この試験を受けさせられる時点で、その人はすでに「危ない側」に分類されている。信号無視や速度超過、携帯電話を使いながらの運転など、将来の重大事故につながりやすいとされる11種類の違反のどれかを、過去3年でやってしまった人だけが対象になるからだ。無違反で過ごしてきた人は、そもそもこの試験の存在すら知らずに更新を終える。
つまり比べられているのは、「もともとリスクが高いと判定された人のうち、試験を通った人」と、「リスクの低い、ふつうの高齢ドライバー」だ。前者のほうが事故が多いのは、ある意味で当たり前とも言える。試験は危ない人を全員はじき出せるほどの目を持っていなかった、ということだ。
ここまでなら「制度の精度の問題」で済む。だが、もう一段だけ深いところに、私たち全員に関係する話がある。
「合格」という二文字が、人の頭の中でしていること
考えてみてほしい。あなたの親が、運転に不安を持ちながらも更新に行ったとする。そこで実車試験を受け、「合格」と言われて帰ってきた。あなたは何と思うだろうか。
おそらく、少しほっとする。「国の試験を通ったんだから、まだ大丈夫なんだろう」と。親本人はもっとそう思う。「ほら見ろ、ちゃんと受かったじゃないか。お前たちが心配しすぎなんだ」。これで、家族のあいだにあった「そろそろ運転やめたら」という会話は、当分のあいだ封印される。
ここに、この問題のいちばん厄介な部分がある。試験に合格したという事実は、運転の安全性をほとんど保証していないのに、本人と家族の警戒心だけは確実に下げてしまう。危ない人をふるい落とすはずだった制度が、ふるいを通り抜けてしまった危ない人に「お墨付き」を与え、まわりの目を緩ませる方向に働く。
これは高齢者だけの、特殊な話ではない。人は「認められた」「合格した」「資格を取った」という言葉に弱い。健康診断で「異常なし」と言われた翌日から、ついつい食べすぎる。検査で問題が出なかったというだけで、生活そのものが安全になったように錯覚する。資格試験に受かった人が、その瞬間に実力のピークを迎え、あとは緩んでいくのも似た構造だ。試験は「ある一日の、ある条件での、ある能力」を測っているだけなのに、私たちはそれを「この人は大丈夫」という人格全体への評価に読み替えてしまう。
運転免許そのものが、この錯覚の上に成り立っている。日本では免許証が、銀行の口座を開くときも、宿に泊まるときも、宅配便を受け取るときも、身分証明書として通用する。運転とまるで関係ない場面で、「この人はちゃんとした人だ」という信用の証として差し出される。免許は本来「車を動かしてよい」という許可にすぎないのに、いつのまにか人の信頼性そのものの証明書のように扱われている。合格や認定が、測っていないものまで保証しているように見えてしまう。今回の数字は、その思い込みのほころびが、いちばん命に直結する場所で表に出たものだと言える。
数字をどう読むか、で見える景色が変わる
念のため補っておくと、この調査結果は「実車試験には意味がない」とか「高齢者は運転するな」という話ではない。比較された2つのグループは、もともとのリスクがそろっていない。違反歴のある人と、ない人を並べているのだから、後者のほうが事故が少ないのはむしろ自然だ。だから「2.8倍」という数字だけを取り出して、試験を受けた高齢者を責めるのは、データの読み方として乱暴だ。
正しく読むなら、こうなる。今の試験は、本当に危ない人をふるい落とすには、目が粗かった。9割が通るふるいでは、いちばん網にかけたかった人まで通り抜けてしまう。そして通り抜けた人には「合格」というラベルが貼られ、本人もまわりも、それを安全の証だと受け取ってしまった。警察庁が見直そうとしているのは、この粗さの部分だ。
逆に言えば、私たちが日常でできることも、この読み方の中にある。親が試験に通ったからといって、心配ごとが消えたわけではない。むしろ、その人は「もともとリスクが高い」と国に分類された側にいる。合格の二文字は、会話を終わらせる理由ではなく、続ける理由のほうに近い。
「受かった」を、安心ではなく出発点に
人は、誰かのお墨付きがほしい生き物だ。試験、資格、認定、合格。それらがあると、自分の判断を預けてしまえるから楽になる。けれど、お墨付きが測っているのは、たいてい「ある瞬間の、限られた一面」でしかない。残りの広い部分は、結局、自分と、そばにいる人の目で見続けるしかない。
実家の車を思い浮かべてほしい。次に親が免許を更新して「ちゃんと通ったよ」と笑ったとき、その言葉を会話の終わりにするか、始まりにするか。今回の数字が教えてくれるのは、合格証の中身ではなく、その紙を私たちがどう読むか、のほうなのかもしれない。
参照元: 毎日新聞「高齢ドライバーの『運転技能検査』見直しへ 合格者の事故率高く」(2026年6月25日)、朝日新聞「75歳以上ドライバー、実車試験合格なのに事故多く 制度充実へ議論」(2026年6月25日)、共同通信「違反高齢ドライバー、事故2倍超 実車試験の見直し検討、警察庁」(2026年6月25日)、産経新聞「『運転技能検査』見直しへ 事故率高く『不十分』の指摘も、75歳以上の免許更新」(2026年6月25日)、警察庁「運転技能検査について」(制度概要・対象となる違反歴・採点基準)、内閣府「令和4年交通安全白書」(令和2年改正道路交通法 高齢運転者対策の施行について)


























