家族の「送り迎え」に、国が値段をつけた。年5.8兆円。それは、これまで誰の家計簿にも載らなかった時間だった
国が初めて試算した交通空白の経済損失は年間約10兆円。その最大の項目が、家族の送り迎え──年間5.8兆円という数字は、運転席に座った家族の人生の時間に初めてつけられた値札だった。
- Chapter
- 10兆円の内訳を見ると、順番が意外だった
- 「送迎」は、統計の上ではずっと存在しなかった
- 運転席に座ってきたのは、多くの場合、母親だった
- 「親切」を経済に翻訳すると、何が起きるのか
- 助手席には、いつも誰かの時間が乗っていた
塾の前で車を停めて、子どもが出てくるのを待つ。部活の帰りに駅まで迎えに行く。足腰の弱った親を病院へ乗せていく。保育園のお迎えに間に合うよう、会議を早めに切り上げる。
こういう「送り迎え」を、私たちはたいてい、愛情とか、親切とか、家族だからやって当たり前のこと、と呼んできた。誰かに感謝されることもあれば、されないこともある。けれど、それに値段がついたことは、たぶん一度もなかった。
ところが2026年7月9日、国のある試算が、この「当たり前」に金額を貼りつけた。
路線バスや鉄道が使いにくい「交通空白」によって生まれる経済損失は、全国で年間およそ10兆円。そのなかで最大の項目が、家族の送り迎えによるものだった。金額にして、約5兆8千億円である。
10兆円の内訳を見ると、順番が意外だった
この試算をまとめたのは、EYストラテジー・アンド・コンサルティングという調査会社で、分析には国土交通省が協力した。交通空白による損失をまとめて金額化したのは、これが初めてとされる。
損失の内訳はこうなっている。
- 家族の送迎負担による所得機会の損失:約5兆8千億円 - 訪日外国人の観光消費機会の損失:約2兆3千億円 - 外出をしないことによる消費機会の損失:約1兆2千億円 - 高齢者の外出控えによる介護・医療負担の増大:約8千億円
(合計で約10.1兆円。報道では「約10兆円」と丸めて伝えられることが多い。)
順番に注目してほしい。観光でも、買い物でも、医療でもなく、いちばん上に来ているのが「家族の送り迎え」だ。しかも二番手以下を大きく引き離している。
なぜ送り迎えが最大になるのか。理屈はシンプルだ。バスも電車も乏しい場所では、免許を持たない人、あるいは持てない人が、自分では移動できない。子ども、高校生、運転をやめた高齢者。その人たちを運ぶのは、家族の誰かだ。運ぶために、その誰かは仕事を休む、時短にする、そもそも働きに出るのをあきらめる。試算はこの「働けたはずなのに働けなかった時間」を、失われた所得としてお金に換算した。
つまり5.8兆円は、車の燃料代でも、渋滞のロスでもない。運転席に座った家族の、人生の時間そのものである。
「送迎」は、統計の上ではずっと存在しなかった
ここで少し立ち止まりたい。5.8兆円という数字が新鮮に響くのは、逆に言えば、これまで送り迎えという行為が「数えられてこなかった」からだ。
日本には、国民の生活時間を丹念に調べる総務省の「社会生活基本調査」という大きな調査がある。5年に一度、およそ19万人を対象にする。ところが、そのなかにも「送迎」という独立した項目は存在しない。送り迎えは、家事や育児という大きな箱の中に溶けて、輪郭を失っている。
数えられないものは、社会の目に見えない。見えないから、無いことにされやすい。送り迎えは長いあいだ、まさにそういう扱いを受けてきた行為だった。家族の愛情でありケアであり、だからこそタダで提供されるのが当然とされ、経済の勘定には一度も入ってこなかった。
今回の試算が本当にやったことは、交通のニュースというより、「見えなかった労働に、初めて値札をつけた」ことに近い。5.8兆円というのは、その値札に書かれた数字だ。
運転席に座ってきたのは、多くの場合、母親だった
では、その運転席には、実際に誰が座ってきたのか。
各種の民間調査を並べると、輪郭がはっきりしてくる。子どもの習い事の送迎について、ある調査では保護者の6割以上が「している」と答え、働く母親に限った別の調査では8割以上が送迎に関わっていた。そして複数の調査が、送り迎えの担い手はおよそ8割が母親だと報告している。
もっと大きな絵で見ても傾向は変わらない。総務省の調査によれば、家事・育児・家族のケアといった無償の労働に使う時間は、女性が1日あたり3時間56分、男性が1時間19分。差はおよそ2時間半にのぼる。内閣府が国際比較でまとめたデータでは、日本の無償労働のうち女性が担う割合は84.6%で、比較された国のなかで最も高かった。
送り迎えは、この「女性に偏った無償労働」のなかに、名前を持たないまま含まれていた。だから5.8兆円という数字は、地方の交通問題であると同時に、「誰かの負担の上に、私たちの日常が成り立っていた」という事実の見取り図でもある。その誰かは、統計に名前が出ないまま、毎朝ハンドルを握ってきた。
ちなみに、これは地方だけの話ではない。バスも電車も充実しているはずの都市部でも、共働き家庭の送り迎えは重い。保育園のお迎えでいちばん多い時間帯は夕方6時前後で、そこに間に合わせるために働き方をやりくりする人は多い。習い事について「いちばんつらいのは送迎」と答える保護者は珍しくない。交通空白というと山あいの村を思い浮かべがちだが、送り迎えという行為そのものは、都会のマンションの下でも、同じように時間を吸い取っている。
「親切」を経済に翻訳すると、何が起きるのか
ここまで読んで、少し引っかかった人がいるかもしれない。家族の送り迎えを「損失」と呼ぶのは、冷たくないか、と。母が子を送るのも、子が老いた親を病院に乗せるのも、そこには数字にできない大切なものがあるはずだ、と。
その感覚は正しい。だから、この試算の読み方には注意がいる。
5.8兆円は「送り迎えをやめれば取り戻せるお金」ではない。送り迎えそのものが悪いのでも、無駄なのでもない。試算が測ったのは、「本人が運転をしなくても移動できる社会だったなら、その時間を別のことに使えたはずだ」という、失われた選択肢の大きさだ。バスがあれば、乗り合いの車があれば、その2時間半を仕事に、休息に、あるいは家族と過ごす別の形に回せた人がいる。翻訳された数字が示すのは、その「回せなかった時間」の総量である。
国は令和7年度から9年度を交通空白解消の集中対策期間と定め、スクールバスや病院の送迎車を住民の足として使いやすくする法改正も進めている。担い手不足もあって解消の見通しは楽観できないが、方向としては、これまで家族が一人で背負ってきた送り迎えを、社会の側で少しずつ肩代わりしていこうという話だ。5.8兆円という金額は、その肩代わりに投じる予算を「福祉のコスト」ではなく「成長への投資」と言い換えるための、根拠になっている。国交相もこの報告を受けて「交通空白の解消は成長投資だ」と述べている。
助手席には、いつも誰かの時間が乗っていた
車という道具は、便利さの象徴として語られることが多い。どこへでも行ける自由、家族でどこかへ出かける楽しさ。それはたしかにある。
けれど今回の10兆円という数字が照らし出したのは、その裏側だ。誰かが自由に動くために、別の誰かがハンドルを握り、その人の時間が静かに差し出されてきた。運転席と助手席は、いつもワンセットだった。私たちが「送ってもらった」記憶の数だけ、「送った」人の時間がある。
次に家族の車の助手席に座るとき、あるいは誰かを送るためにエンジンをかけるとき、少しだけ思い出してほしい。その移動には、いま初めて値段のついた時間が乗っている。5.8兆円という国の数字は、遠い政策の話に見えて、実はあなたの家の車の中で、毎日やりとりされてきたものの合計なのだ。
参照元: 47NEWS(共同通信)「『交通空白』損失は10兆円 送迎負担、就労や消費影響試算」(2026年7月9日)、読売新聞「『交通空白』で年10兆円の経済損失、初の試算を国交相に報告へ」(2026年7月9日)、国土交通省「『交通空白』解消に向けた取組方針2026」(令和8年6月10日)、総務省統計局「令和3年社会生活基本調査」結果、内閣府「男女共同参画白書 令和5年版」(無償労働時間の国際比較)























