車の「顔」の真ん中に、障子職人の技が彫り込まれている。穴が要らなくなった時代に、なぜ格子は増えているのか
信号待ちで前の車のフロントをぼんやり眺めたことはないだろうか。ヘッドライトとグリルが作り出す「顔」。電気自動車の時代に、冷却の穴としての役目を終えたグリルが、日本の伝統工芸「組子」をまとって静かに変貌している——その奇妙な現象を、日産エルグランド、トヨタセンチュリー、レクサスの事例から読み解く。
- Chapter
- そもそも、あの網目は「穴」だった
- 穴が要らなくなったのに、格子は凝っていく
- 組子とは、釘を一本も使わない障子の芸術
- なぜ、日本車は「工芸品」になりたがるのか
- 私たちは、なぜ車の「顔」に弱いのか
- 穴の跡地に残るもの
信号待ちで、前の車のフロントをぼんやり眺めたことはないだろうか。ヘッドライトが目に見え、その間にある大きな網目のパーツが、なんとなく鼻や口のように見える。私たちはあの部分を「グリル」と呼ぶ。呼び名を知らなくても、あそこがその車の「顔つき」を決めていることは、たいていの人が感覚でわかっている。
2026年7月、日産が16年ぶりに全面刷新した高級ミニバン「エルグランド」を発売した。価格は689万円から。ライバルのトヨタ・アルファードより同等グレードで20万円以上高い、堂々の値付けだ。ただ、この記事で注目したいのはその値段でも、性能でもない。この車の「顔」の真ん中に、あるものが彫り込まれていることだ。
日産は公式に、新型エルグランドのフロントグリルについてこう説明している。日本の伝統工芸である「組子」をモチーフにした、と。リアの横一文字のランプにも、同じ組子のパターンを配したという。
組子と聞いてすぐ像が浮かぶ人は、そう多くないと思う。だが、この一台をきっかけに少しだけ調べていくと、日本の高級車の「顔」で、いま静かに奇妙なことが起きているのがわかってくる。本来なら消えていくはずの網目模様が、むしろ手の込んだ工芸品として、車の正面に増殖しているのだ。
そもそも、あの網目は「穴」だった
話を進める前に、グリルとはそもそも何なのかを押さえておきたい。
自動車のあの網目は、飾りとして生まれたものではない。もとをたどれば、エンジンを冷やすための空気の取り入れ口だ。ガソリン車は走ると猛烈に熱くなる。その熱を冷却水で受け止め、車の前面にあるラジエーターという装置で風に当てて冷ます。だからラジエーターの前には、走行風がたくさん入るよう大きな開口が必要になる。むき出しのラジエーターを小石などから守るために網をかぶせた、それがグリルの始まりだった。別名を「ラジエーターグリル」というのは、そのためだ。
つまり、あの立派な網目は本来「機能を持った穴」である。顔の真ん中でいちばん目立つあの部分は、要するに空気を飲み込む口だったわけだ。
ところが、この前提がいま崩れかけている。電気自動車、いわゆるEVの登場だ。
EVはエンジンを積んでいない。モーターとバッテリーで走る。もちろんモーターやバッテリーにも冷却は要るが、ガソリンエンジンほど大量の走行風を正面から取り込む必要がない。すると、フロントに大きな穴を開けておく理由がなくなる。空気抵抗を減らして電費を稼ぎたいEVにとって、むしろ前面はのっぺりと閉じてしまうほうが都合がよい。
実際、多くのEVは前面を平らなパネルで覆った「グリルレス」のデザインを採り入れている。顔の真ん中にあった口が、すっと閉じたような見た目だ。技術の理屈だけを追えば、グリルという部品は役目を終え、これから消えていく運命にある。
穴が要らなくなったのに、格子は凝っていく
ここが、この話のいちばん奇妙なところだ。
機能として要らなくなったなら、素直に消えていけばいい。ところが現実には逆のことが起きている。グリルは消えるどころか、ブランドの「顔」を決める大事な看板として、むしろ手をかけられるようになった。
海外の例がわかりやすい。BMWの縦長の二つ穴グリル、アウディの大きな六角形。どちらもそのメーカーを一目で見分けさせる記号になっていて、EVになって冷却の穴が要らなくなっても、あえて意匠だけを残している。もう空気を通していない、閉じたパネルの表面に、グリルの「模様」だけが刻まれる。デザイナーたちは、それを冷却装置ではなくブランドの顔だと割り切って設計している。
日本の高級車で起きているのは、その一歩先だ。ただの記号にするのではなく、そこに日本の伝統工芸を持ち込んでいる。冷やすための穴が要らなくなっていく時代に、日本のメーカーは車の顔を、職人がこしらえる装飾品の方向へ寄せ始めた。
その象徴が、冒頭の「組子」なのである。
組子とは、釘を一本も使わない障子の芸術
組子細工とは、細く削った木片を、釘や金具をいっさい使わず、木を組む力だけで幾何学模様に組み上げていく日本の建具技法だ。障子や欄間の飾りに使われてきた。麻の葉や七宝、亀甲といった細かな文様を、建具職人が木片を一本ずつ手で噛み合わせて仕上げていく。すきまなく組まれた木の格子に光が透けると、模様が影となって畳に落ちる。あの繊細な格子模様、と言えば思い出せる人もいるだろう。
要するに、日本家屋の中でいちばん手のかかる、職人技の塊のような部分だ。それを、日産は車の正面に持ってきた。
そしてこれは、日産だけの思いつきではない。日本の最高級車の世界では、以前から起きていたことだった。
トヨタが「日本のショーファーカー」として作るセンチュリーは、その極みだ。2023年に出たセンチュリーのSUVは、フロントグリルを「日本建築の伝統技法である組子細工をモチーフにした」とトヨタ自身が公式に説明している。エンブレムの鳳凰は、江戸彫金の流れをくむ職人が羽の一本一本を手で彫る。塗装は輪島塗の工房を訪ねて漆塗りの技を学び、何層も塗り重ねて水で研ぎ出す。天井の織物には「絶えることなく長く続く」という願いを込めた紗綾形という文様が使われている。もはや車というより、走る工芸品だ。
トヨタの高級ブランド、レクサスも近い。フラッグシップのLSでは、ドアの内側の装飾に江戸切子のようなカットガラスを使い、その表皮には京都の西陣織を、金沢の職人が手で貼ったプラチナ箔と組み合わせている。ドアの内張りには、折り紙のように手で折り目をつけたひだ細工が入る。小型のUXでは、和紙の風合いを再現したパネル、刺し子をモチーフにした縫い目、竹籠の編み目をかたどったシート表皮が使われている。
車のスペック表には一行も載らない。馬力にも燃費にも関係しない。それでも、これらのメーカーは職人の手仕事を車に埋め込むことに、少なくないコストをかけている。
なぜ、日本車は「工芸品」になりたがるのか
ここで一度立ち止まりたい。冷却の穴が要らなくなり、車がどんどん電気で動く精密機械になっていくその同じ時期に、どうして日本の高級車は逆に、釘を使わない障子細工や漆や西陣織へ向かうのだろうか。
一つには、「顔」以外で差をつけにくくなっているという事情がある。
以前このマガジンでも触れたことがあるが、いまの車は世界中で見た目が似てきている。空気抵抗や安全基準、歩行者保護のルールを各社がまじめに満たしていくと、どうしても輪郭が近づいてしまう。細長いライト、丸まった屋根。エンブレムを見るまでメーカーがわからない、という経験をした人は多いはずだ。しかも中身は、モーターとバッテリーとソフトウェアへと共通化が進んでいる。走りや装備で「これはうちの車だ」と主張するのが、年々むずかしくなっている。
そうなると、残された数少ない自己主張の場所が、顔なのだ。もう空気を通していない、機能から解き放たれたグリルは、逆にデザイナーが自由に意味を込められる真っ白なキャンバスになった。そこに何を彫るか。日本のメーカーが選んだのが、他の国が絶対に持っていないもの、つまり自国の伝統工芸だった。ドイツ車には組子は出せない。西陣織も漆もない。国産の最高級車が「これは日本の車だ」と黙って主張する手段として、工芸のモチーフは強い。
もう一つ、もっと素朴な理由がある。数百万円を払う人に、機械であることを忘れさせたいのだ。
七宝や麻の葉のような文様は、日本では昔から縁起物とされてきた。無限に広がる、途切れず続く、といった意味が重ねられている。そういう模様を身のまわりに置くという行為は、家具や着物や器の世界ではごく普通のことだった。高級車が向かっているのは、まさにその世界だ。移動の道具ではなく、所有して満たされる「調度品」。値段の高さを、馬力ではなく「手のかかり方」で納得させる。組子のグリルは、そのための最もわかりやすい記号なのだ。
私たちは、なぜ車の「顔」に弱いのか
ここまでの話は、作り手の戦略だ。では、受け取る私たちの側はどうか。なぜ格子模様ひとつで「高そう」「立派だ」と感じてしまうのだろう。
その手前に、そもそもの不思議がある。私たちはなぜ、金属とプラスチックの塊であるはずの車の前面を、「顔」として見てしまうのか。
これは気のせいではなく、脳のクセだ。人間の脳は、点が二つと線が一本あるだけで、そこに顔を見つけてしまう。壁のしみやコンセントの差込口が顔に見える、あの現象で、パレイドリアと呼ばれる。車のフロントは、ライトが目、グリルが鼻や口という、まさに顔そのものの配置になっている。
しかもこれは、単なる思い込みでは片づかない。ある脳の画像研究では、人が車の前面を「顔らしい」と感じるほど、本物の人の顔を見たときに働く脳の領域が、実際に反応することが確かめられている。つまり私たちは、車の正面を「もののパーツ」としてではなく、生き物の顔に近いものとして、半ば無意識に受け取っている。
ここで、話がつながる。
車の顔がただの網目だった時代、そこは「空気を吸う口」でしかなかった。だが顔として認識される場所であり、なおかつ機能の縛りから自由になったいま、そこに何を置くかは、その車がどんな「表情」を持つかを決める。強面に見せて威圧するのか、穏やかに見せて品を出すのか。日本の高級車が組子や七宝を選んだのは、荒々しさではなく、静かな格式や落ち着きを、その「顔」に持たせたかったからだと読める。木を組んだ細やかな格子は、鋭い牙のような造形とは正反対の印象を与える。
だから、あなたが街で日産の新しいエルグランドやトヨタのセンチュリーとすれ違い、理由もわからず「なんだか品がいいな」と感じたとしたら、それは偶然ではない。作り手が、消えかけた穴の跡地に職人技を彫り込み、あなたの脳が無意識にそれを「顔の表情」として受け取った結果なのだ。
穴の跡地に残るもの
車の顔の真ん中にある網目は、100年以上のあいだ、エンジンを冷やすための実用の穴だった。その穴が、電気の時代に要らなくなる。ふつうなら、ここで消えて終わる話だ。
けれど、要らなくなったからこそ、そこは自由になった。機能を担っていた場所が意味を担う場所に変わる、という出来事は、じつは車にかぎらず、私たちの身のまわりで何度も起きてきた。柱時計が時刻を知る道具から飾りになり、万年筆が筆記具から贈り物になったのと、根っこは同じだ。役目を終えた実用品が、手仕事と物語をまとって「意味のあるモノ」へ生まれ変わる。
次に信号待ちで前の車の顔を眺めるとき、その真ん中の格子を少しだけ気にしてみてほしい。それはもう、空気を吸うための穴ではないかもしれない。障子職人の技をなぞった、閉じたパネルの上の模様かもしれない。穴だったものが、いつのまにか誰かの手仕事の跡になっている。車という道具が、静かに調度品へと横滑りしていく、その現場が、あなたのすぐ前を走っている。
参照元: 日産自動車「新型『エルグランド』を発表」(2026年7月16日)、トヨタ自動車「センチュリー デザイン」公式サイト、トヨタ自動車グローバルニュースルーム「日本唯一のショーファーカー『センチュリー』と匠の技」、レクサス「LS/UX インテリア」公式サイト、Mercedes-Benz Group「The evolution of the radiator grille」、日経クロステック「『グリルレス』で変わるEV向けフロントパネル」、GAZOO「フロントバンパーやグリルの『穴』が果たす役割りとは」、Kühn et al. (2014) "Is This Car Looking at You? How Anthropomorphism Predicts Fusiform Face Area Activation when Seeing Cars", PLOS ONE























