試乗が「車を知るため」のものだと思っていたら、実は「車を好きにさせるため」の仕掛けだった。触った瞬間、人の脳は勝手に持ち主になる
試乗の目的は「車を知る」ことではないのかもしれない。触れた瞬間、人は勝手に車の持ち主になる――日産が「のってカンガルー」を20年ぶりに復活させた背景と、実物に触れない買い方が増えた今、私たちが知らずに手放しているものを考える。
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- 20年前のカンガルーが、令和に呼び戻された理由
- 実物を見ないで買う人が、思ったより多い
- 触った瞬間、人は勝手に「持ち主」になる
- メーカーが取り戻したいのは「スペックで勝てない部分」
- 気をつけるべきは「車に限らない」ということ
試乗というのは、車の性能をたしかめるためにあると、たぶん多くの人が思っている。乗り心地はどうか、小回りはきくか、思ったより狭くないか。そういう「確認作業」のために、わざわざ販売店まで行ってハンドルを握るのだ、と。
ところが、人の頭の中で本当に起きていることを順番にたどっていくと、話はすこし違ってくる。試乗という体験は、車を「知る」ためよりも、車を「好きにさせる」ために驚くほどよくできた仕掛けだった。一度でも運転席に座ってしまうと、まだ一円も払っていないのに、脳のどこかがもうその車を自分のものとして扱いはじめる。
そして今、この仕掛けが静かに効かなくなりつつある。多くの人が、実物に触れないまま車を買うようになったからだ。2026年の秋、ある自動車メーカーが20年近く前のキャラクターをわざわざ引っぱり出してきたのは、この変化に対する、かなり率直な危機感の表れだった。
20年前のカンガルーが、令和に呼び戻された理由
2026年10月1日、日産が「のってカンガルー」というキャンペーンを全国の販売店で始めた。もとは2007年に登場した試乗キャンペーンで、約20年ぶりの復活になる。名前のとおり、店に来て、実際に車に乗って、それから考えてみてください、という内容だ。テレビCMも流れ、試乗した人にはカンガルーのチャームが配られる。
懐かしさで押すマーケティングは珍しくない。だが注目したいのは、日産がこのキャンペーンを復活させた理由として挙げた説明のほうだ。公式の案内には、こう書かれている。近年は自動車の購入を検討する方法が多様化する一方で、実際に販売店へ行き、クルマを見たり乗ったりする機会は減少している、と。
つまりメーカー自身が、「お客さんが店に来て実物に乗る回数が減っている」と認めているのである。わざわざ20年前のキャラクターを引っぱってきて、全国の店でチャームを配ってまで、人々にもう一度「乗ってみて」と頼んでいる。この少し必死にも見える動きの裏に、今日の本題がある。なぜメーカーは、そこまでして試乗させたいのか。
実物を見ないで買う人が、思ったより多い
まず、「実物に触れない買い方」がどれくらい広がっているのかを見ておきたい。
中古車の情報サイトを運営するプロトコーポレーションが2026年に公表した調査がある。全国の中古車ユーザー4,127人に聞いたもので、「実車を確認しないで車を購入した経験がある」と答えた人が44.2%にのぼった。その内訳は、実車を見ずに買った車に今も乗っている人が31.3%、過去にそういう買い方をした経験がある人が12.9%、という報道になっている。およそ4割から半分の人が、現物を見ないまま車という高い買い物を済ませた経験を持っている計算だ。
同じ調査では、購入を検討するときに訪ねた販売店の数も聞いている。「1店舗だけ」が62.8%、「1店舗も訪ねなかった」が11.1%。つまり多くの人が、比べもせず、あるいは一度も店に行かずに決めている。
(なお、この調査の設問と集計方法については、メディアによって「約4割(38.2%)」と紹介しているものもあり、数字の定義には幅がある。おおよそ「4割前後の人が実車確認なしの購入経験を持つ」と読むのが安全だ。)
もっとも、新車の場合は事情が違う。新車を買った人に広く聞いた調査では、ディーラーで試乗してから買う人はいまも多数派だ。カーリース「おトクにマイカー 定額カルモくん」を運営するナイルが2020年に公表した調査では、ディーラーで新車を買った1,144人のうち、7割強(73.1%)が「試乗した」と答えている。実物に触れずに買うのが当たり前になった、というわけではない。
ただし同じ調査は、別の母集団でまったく違う数字も示している。オンラインで車選びが完結するカーリースの契約者326人に絞って聞くと、販売店で試乗してから契約した人はわずか3%。レンタカーやカーシェア、知人の車で事前に運転した人まで含めても14%にとどまった。つまり残りの8割以上は、一度も運転席に座らないまま契約している。購入のしかたがネットに寄るほど、座りも走りもしないで決める人の割合は跳ね上がる。ここに出た3%や14%は、あくまでオンライン完結型サービスを選んだ人に偏った数字で、新車購入者全体の姿ではない点には注意がいる。それでも、「どういう買い方を選ぶか」で実物に触れる機会が大きく変わることは、はっきり見てとれる。
ここまでは、言われてみれば心当たりがある話かもしれない。スマホで何でも比較できる時代だ。スペックも、実燃費の口コミも、他人の後悔談も、指先でいくらでも読める。わざわざ店まで足を運ぶ必要を感じない、という感覚はよくわかる。
問題は、その「合理的に見える買い方」で、私たちが知らずに手放しているものがある、という点だ。
触った瞬間、人は勝手に「持ち主」になる
ここで、車からいったん離れて、人間の頭の中をのぞいてみたい。
行動経済学に、保有効果と呼ばれる有名な現象がある。平たく言うと、人は自分が持っているものを、持っていないときより高く評価してしまう、という心ぐせだ。
これを示した古典的な実験がある。学生を二つのグループに分け、片方にはマグカップを配ってから「いくらなら売る?」と聞く。もう片方にはカップを渡さず「いくらなら買う?」と聞く。同じカップなのに、売る側がつけた値段は、買う側が出そうとした値段のおよそ2倍だった。手に入れたとたん、そのカップは本人の中で急に価値を増したのだ。実験を行った研究者たちの一人、ダニエル・カーネマンは、のちにノーベル経済学賞を受けている。
さらに不思議なのは、「所有」と呼べるほどのものですら要らない、ということだ。消費者心理の研究者ジョエル・ペックらが2009年に発表した研究によると、人は商品にただ触れるだけで、それを「自分のもの」のように感じはじめ、支払ってもいい金額まで上がる。買ったわけでも、もらったわけでもない。ただ手で触れた。それだけで、脳のどこかが所有者のふりを始めてしまう。
勘のいい人は、もう話の向かう先が見えているはずだ。
試乗とは、この「触れるだけで持ち主になる」心理を、これ以上ないほど濃く発動させる装置である。運転席に座り、シートに体重をあずけ、ハンドルの太さを手のひらで感じ、自分の足でアクセルを踏み、曲がり角を自分の判断で曲がる。数分のあいだ、その車はまぎれもなく「自分が動かしている車」になる。マグカップを数秒持っただけで価値が上がるのなら、十数分も運転席の主をやれば、何が起きるかは想像がつく。
店を出るころには、その一台は、カタログの中の無数の選択肢のひとつではなくなっている。すでに一度「自分のものだった」車になっている。だから試乗は、車を知るための作業であると同時に、いや、それ以上に、車を手放したくなくさせるための体験なのだ。
メーカーが取り戻したいのは「スペックで勝てない部分」
ここまで来ると、日産がカンガルーを呼び戻した理由が、別の角度から見えてくる。
ネットの上では、車はほとんど数字とテキストに還元される。燃費、価格、荷室の容量、安全装備の有無、他人の星いくつのレビュー。この土俵では、各社が横並びで比較され、どうしても価格と数字の勝負になりやすい。見られる側にとっては、しんどい戦い方だ。
ところが、シートの座り心地や、ドアを閉めたときの音の質感、ハンドルを握ったときの手応えといった感覚は、画面の上では伝わらない。そしてこの「伝わらない部分」こそが、触れた瞬間に保有効果を立ち上げる、いちばん強い引き金になる。実際、自動車メーカー各社が加盟する業界団体の調査でも、ネットでの車の購入にためらう理由として、デザインや車体の大きさ、装備の質感を自分の目で確かめられない点が上位に挙がっている。人は、質感だけはどうしても現物で確認したいと思っている。
だからメーカーにとって、来店して試乗してもらうことは、たんなる接客ではない。スペック比較では勝ちにくい土俵から、触覚と所有感という自分たちに有利な土俵へ、お客さんを連れてくる作業なのだ。「ためしに、乗って考えよう」という柔らかい呼びかけの裏には、「画面を閉じて、一度さわってみてほしい。そうすれば、たぶん手放せなくなるから」という、したたかな読みがある。
これは批判ではない。むしろ、人間のできかたに正直な、理にかなった戦略だ。知っておきたいのは、その仕組みの存在そのものである。
気をつけるべきは「車に限らない」ということ
ここで、話を車の外へ広げたい。なぜなら、この「触れると欲しくなる」という仕組みは、あなたの買い物のあらゆる場面にひそんでいるからだ。
服屋で、なんとなく手に取って袖を通したジャケット。家電量販店で、つい握ってみた掃除機の持ち手。住宅展示場で、一歩足を踏み入れたモデルルーム。スマホショップで、店員に言われるまま持ってみた新機種。これらはすべて、保有効果と「ただ触れる」ことの効果を、売る側が意識しているかどうかはともかく、結果として発動させている。試着室の鏡の前に立った瞬間、その服はもう半分あなたのものになっている。
だから、ここから引き出せる教訓は、「試乗するな」でも「店に行くな」でもない。むしろ逆だ。
実物に触れるのは、車のよさを体で知るうえで、やはり大切なことだ。写真と数字だけで決めた買い物が、現物を見てがっかりに終わる話は珍しくない。ネットだけで完結させる買い方には、質感という大事な情報が丸ごと抜け落ちている。
ただし、触れたあとの自分の気持ちが、純粋な「この車がいい」なのか、それとも「もう手に入れた気がするから手放したくない」なのかは、分けて考える値打ちがある。試乗して気持ちが大きく動いたときこそ、その場で決めずに一度店を出て、画面の前に戻って、数字と予算をもう一度冷静に眺めてみる。保有効果は、少し時間と距離を置くと、ふっと力を失うことがある。
車に詳しいかどうかは、ここでは関係がない。これは、人が何かを選ぶときに毎回くぐっている、ごくふつうの心のしくみの話だからだ。
次に何かの売り場で、店員さんから「よかったら手に取ってみてください」「ためしに座ってみてください」とすすめられたとき。その一言の親切さの奥に、あなたを静かに「持ち主」にしようとする、とてもよくできた仕掛けが働いている。それを知ったうえで触れるのと、知らずに触れるのとでは、財布の閉じ方がすこし変わってくるはずだ。
参照元: 日産自動車「約20年ぶりに日産“のってカンガルー”が帰ってきた!」プレスリリース(2026年10月1日)・プロトコーポレーション「プロト カーユーザー レポート 2026」(中古車ユーザー4,127人調査、2026年9月発表)・ナイル「新車購入時の試乗に関する調査」(ディーラー購入者1,144人およびカルモくん契約者326人調査、2020年6月公表)・Kahneman, Knetsch & Thaler (1990) "Experimental Tests of the Endowment Effect and the Coase Theorem"・Peck & Shu (2009) "The Effect of Mere Touch on Perceived Ownership"・日本自動車工業会「2023年度乗用車市場動向調査」(2024年4月公表)























