車の「ボタン」が、こっそり戻ってきている。最新のはずのタッチパネルを、世界が急に嫌い始めた理由
タッチパネル全盛の流れに異変。フォルクスワーゲンやメルセデスが「過ちだった」と認め、物理ボタンを戻し始めた。運転中の安全を左右する、車の操作デザインの静かな大逆転とは。
- Chapter
- 「未来っぽさ」の正体は、視線を奪う時間だった
- デザインを動かしたのは、消費者の好みではなく「格付け」だった
- 私たちは「新しい=良い」と、あまりに素直に信じている
- 次に車を選ぶとき、指先で確かめてほしいこと
新しい車に乗り換えて、最初に少しだけ戸惑った経験はないだろうか。
エアコンの温度を下げたい。以前の車ならダイヤルを回すだけだった。ところが新しい車は、まずダッシュボードの真ん中にある大きな画面をタッチして、メニューを開いて、空調のアイコンを探して、そこでようやく温度を触る。走りながらだと、視線が何度も前から外れる。スマートフォンみたいで格好いいのだけれど、慣れるまでは正直、前のダイヤルのほうが早かった気がする。
この「大きな画面ですべてを操作する」流れは、ここ十数年で世界中の車に広がった。テスラが室内からほとんどのボタンを消し去り、それを各社が追いかけた。物理的なスイッチはダサくて古い、画面ひとつでスマートに操作するのが未来の車だ。そういう空気が、業界全体を覆っていた。
ところが今、その流れが静かに逆回転している。フォルクスワーゲン、ポルシェ、メルセデス・ベンツ、ヒョンデ。名前を聞けば誰でも知っているようなメーカーが、次々と「ボタンを戻します」と言い始めた。しかも、その言い方がどこか反省じみている。フォルクスワーゲンのデザイン責任者は、主要な操作を画面に集約したことを「過ちだった」とまで表現している。
なぜ、最新だったはずのものが、こんなに急に嫌われ始めたのか。理由をたどっていくと、車のデザインの流行という話ではなく、私たちが「便利」と「安全」を無意識に取り違えていた、という少し背筋の伸びる話に行き着く。
「未来っぽさ」の正体は、視線を奪う時間だった
まず、素朴な疑問から始めたい。画面で操作するのと、ボタンで操作するのは、そんなに違うものなのだろうか。
これをまじめに測った人たちがいる。スウェーデンの自動車雑誌が2022年、ちょっと意地悪だが的確な実験をした。時速110キロで車を走らせながら、ドライバーに「エアコンをつけて温度を調整する」「ラジオの局を変える」「メーター表示の明るさを変える」といった、ごくありふれた操作をやってもらう。そして、その操作が終わるまでに何秒かかり、その間に車が何メートル進んだかを測った。
結果は、想像よりずっと極端だった。
物理的なボタンとダイヤルだけで操作できる、2005年式の古いボルボは、一連の操作を10秒、走行にして306メートルで終えた。いっぽう、操作のほとんどを大画面のタッチに頼る最新のSUVは、同じことをするのに44.6秒、距離にして1372メートルもかかった。四倍以上の差である。
1372メートルというのは、時速110キロで走る車が20秒以上、運転者の意識と指先を「画面のほう」に持っていかれ続けた、ということだ。その間、前方への注意は細切れになる。高速道路なら、サッカー場十数個ぶんの距離を、半分うわの空で走り抜けていることになる。
ここに、この話の最初の「ずれ」がある。私たちはタッチパネルを「便利で先進的なもの」として受け取ってきた。ところが操作の現場では、それは「手元を見ないと押せないもの」だった。ボタンは、指先が形と位置を覚えてしまえば、前を見たまま手探りで押せる。画面上のアイコンは、毎回きちんと目で狙わないと押せない。見た目の未来っぽさと引き換えに、私たちは静かに、前を見る時間を差し出していた。
ちなみにこの雑誌は2026年に同じ実験をもう一度やっている。改善されたかと思いきや、平均の走行距離はむしろ延びていた。つまり車はますます賢く、画面はますます大きくなったのに、「操作のために前から目を離す時間」は減るどころか増えていた。
デザインを動かしたのは、消費者の好みではなく「格付け」だった
では、なぜメーカーは急に方針を変えたのか。ここがこの話のいちばん意外なところだ。
きっかけは、消費者が「やっぱりボタンがいい」と声を上げたことでも、デザイナーの美意識が変わったことでもない。ヨーロッパの、ある「格付け」のルールが変わったからである。
車のカタログや広告で「安全性能で最高評価の5つ星」といった表現を見たことがあると思う。あの星の多くは、ユーロNCAPという欧州の第三者機関がつけている。新しい車をわざと衝突させ、人形にかかる衝撃を測り、自動ブレーキの効き具合を試す。その総合成績が星の数になる。メーカーにとってこの星は死活問題だ。5つ星でなければ「安全に手を抜いた車」という印象がつき、売れ行きに直結する。だから各社は、この評価基準に必死で合わせて車を作る。
そのユーロNCAPが、2024年に一つの方針を打ち出した。2026年から、ごく基本的な操作をタッチパネルだけに頼っている車は、最高評価の5つ星を取りにくくする、というものだ。
対象になったのは、派手な機能ではない。方向指示器、ハザードランプ、警笛、フロントガラスのワイパー、そして緊急通報のボタン。どれも「とっさに、前を見たまま操作できないと困る」ものばかりだ。これらは物理的なスイッチとして備えなさい、というのが新しい要求である。ユーロNCAPの担当者は、タッチパネルの使いすぎは業界全体の問題だ、という趣旨のことを述べている。
これは、制度が製品の形をひっくり返した、なかなか見事な例だ。安全格付けという一枚のルールが、世界中のデザイナーの手を動かし、いったん室内から消えたはずのスイッチを呼び戻した。ウインカーやワイパーを画面の中に隠したままだと星が減る。星が減ると売れない。だから戻す。フォルクスワーゲンが「過ちだった」と語り、メルセデスの首脳が「やりすぎた」と認めた背景には、この冷徹な計算がある。懐古趣味ではなく、経済合理性が、ボタンを連れて帰ってきたのだ。
私たちは「新しい=良い」と、あまりに素直に信じている
ここで少し、車から離れてみたい。
この話の面白さは、車のスイッチそのものにあるのではない。「新しくて洗練されたものは、古くて素朴なものより優れているはずだ」という、私たちの中にある思い込みが、静かに裏切られたところにある。
タッチパネルは実際、多くの場面で優れている。地図を大きく表示し、指でなぞって拡大でき、機能をあとから増やせる。工場にとっても、物理ボタンを何十個も配線するより、画面一枚のほうが作るのが安く、速い。だから広がった。広がったこと自体は、間違いではなかった。
問題は、私たちが「なんでもかんでも画面にすれば進歩だ」と、その中身を確かめずに受け入れてしまったことだ。運転という、コンマ数秒が生死を分ける行為の中に、「手元を見ないと押せない操作」が忍び込んでいた。それを最初に指摘したのは利用者ではなく、衝突実験を淡々と繰り返す機関だった。私たちは日々その車を運転しながら、違和感を「自分が慣れていないだけ」と片づけていた。
この構図は、車の中だけの話ではない。家電のリモコンが薄いタッチ式になって、手探りで音量を変えられなくなった。券売機や役所の窓口が画面操作に変わり、年配の人が立ち往生するようになった。新しさは、しばしば「見た目の先進性」と「実際の使いやすさ」を同じ袋に入れて売られる。中身は別物なのに、私たちはまとめて受け取ってしまう。
車のボタンが戻ってきたという小さなニュースは、そのことを静かに教えてくれる。手が形を覚え、目を離したまま押せる。その「地味な安心」は、大きな光る画面よりずっと後になって、価値をようやく認められた。
次に車を選ぶとき、指先で確かめてほしいこと
車を買い替えるとき、私たちはつい、画面の大きさや、そこに映る地図のきれいさに目を奪われる。試乗でも、停まった状態で画面をあれこれ触って「おお、未来っぽい」と感心して終わりがちだ。
けれど、本当に確かめるべきは、たぶんそこではない。走りながら、前を見たまま、エアコンの温度を一度だけ下げられるか。ワイパーを一段だけ速くできるか。ハザードを、探さずに一発で押せるか。指先が場所を覚えられそうか。数年間、毎日その操作を繰り返すのは、カタログではなく自分の手だ。
車に詳しいかどうかは、ここではあまり関係がない。関係するのは、走っている数トンの鉄の塊の中で、自分の視線がどれだけ前に留まっていられるか、という一点だけだ。世界の名だたるメーカーが「過ちだった」と頭を下げてまで戻そうとしているものが、その答えを先に示してくれている。
次にどこかで、ダイヤルやスイッチがきちんと並んだ新しい車を見かけたら、少しだけ見直してあげてほしい。それは古い設計ではなく、いちばん新しい反省が形になったものだ。
参照元: Euro NCAP「Euro NCAP announces 2026 protocol changes to tackle modern driving risks」(プレスリリース)、欧州交通安全評議会(ETSC)「Cars will need buttons not just touchscreens to get a 5-star Euro NCAP safety rating」、Vi Bilägare「Physical buttons outperform touchscreens in new cars, test finds」(2022年)および同誌2026年の追試験、AUTOCAR JAPAN「フォルクスワーゲンが物理スイッチへの回帰を宣言 タッチパネル中心は『過ち』」(2025年)、MotorTrend「Mercedes: Oops, Our Bad—We're Bringing Buttons Back」(2025年)























