タイヤが「ひび割れないため」に入れた成分が、雨の日に川へ流れ、20年間ずっと魚を殺していた
タイヤを長持ちさせるために練り込まれた成分が、雨の日の川でギンザケを次々と死なせていた——。20年もの間、原因不明だった大量死の犯人が2020年に特定され、世界の規制が動き始めている。
タイヤについて、私たちが日ごろ気にすることはほとんどない。溝が減れば交換し、空気が抜ければ入れる。せいぜいその程度だ。黒くて丸くて、四隅についていて、いつのまにか少しずつすり減っている。その「すり減った分」がどこへ消えているのか、考えたことがある人は少ないと思う。
答えのひとつは、道路である。タイヤが路面をこするたびに、目に見えないほど細かいゴムの粉が、少しずつ道に落ちていく。そして雨が降ると、その粉は側溝へ流れ、川へ入り、やがて海へ向かう。ここまでは、なんとなく想像がつくかもしれない。
問題は、その粉のなかに何が入っているかだ。
アメリカの太平洋岸では、20年以上にわたって、ある不可解な現象が観測されていた。秋、産卵のために川をさかのぼってきた大人のギンザケ(コーホーサーモン)が、卵を産む前に次々と死ぬのである。しかも、症状が独特だった。魚が水面をぐるぐると回り、平衡感覚を失い、口をぱくぱくさせ、数時間のうちに息絶える。とくに雨のあと、街のなかを流れる川で、それは繰り返し起きた。地域によっては、遡上したギンザケの半数以上、時には9割が産卵前に死んでいた。
原因はずっと分からなかった。水質を調べても、はっきりした毒物は見つからない。研究者たちはこの現象に「都市雨水死亡症候群(urban runoff mortality syndrome)」という長ったらしい名前をつけて、犯人を探し続けた。
その犯人が、ようやく特定されたのは2020年のことだった。そして正体を知ったとき、多くの人が言葉を失った。犯人は、私たちが毎日踏んでいるタイヤのなかにいた。
「ゴムを長持ちさせる薬」が、変身していた
話は、タイヤの中身から始まる。
タイヤは、ただのゴムの塊ではない。ゴムは、放っておくと空気中の酸素やオゾンと反応して、だんだん硬くなり、ひび割れていく。輪ゴムを引き出しに何年も入れておくと、いつのまにかパサパサになって切れてしまう。あれと同じことが、はるかに過酷な条件で走り続けるタイヤの表面でも起きる。ひび割れたタイヤは、走行中に突然裂ける危険がある。だからタイヤメーカーは、ゴムが劣化しないように「劣化防止剤(老化防止剤)」という薬品を練り込んでいる。
そのなかでも代表的な物質が、「6PPD」と呼ばれるものだ。名前は覚えなくていい。要は、タイヤ表面に薄い保護膜のようなものを作り、オゾンによるひび割れを防ぐ成分である。アメリカのタイヤ工業会は、この物質を「ドライバーと同乗者の安全に欠かせない」とし、現時点で同じ性能を持つ完全な代替品はまだない、と説明している。つまり、悪意で入れているのではない。むしろ「安全のため」に、長いあいだ当たり前に使われてきた。
ところが、この6PPDには、誰も気づいていなかった裏の顔があった。
タイヤの表面で酸素やオゾンと反応するとき、6PPDはその役目を果たしながら、自分自身が別の物質に変わってしまう。この変化してできた物質を「6PPD-キノン」という。もとの6PPDは、実は魚に対してそれほど強い毒性を持たない。ところが、変身後の6PPD-キノンは、ギンザケにとって猛烈な毒になる。ここが、この話のいちばんの落とし穴だった。研究者たちが最初に「タイヤの成分」を疑って6PPDそのものを調べていたら、たぶん犯人は見つからなかった。犯人は、道路の上で生まれる「変身後の姿」だったからだ。
ワシントン大学タコマ校の都市水研究センターと、ワシントン州立大学のチームは、路面の排水に含まれる何千種類もの化学物質を、毒性のあるものへと一つずつ絞り込んでいった。気の遠くなるような作業の末にたどり着いたのが、この6PPD-キノンだった。研究チームはこれを「決定的な証拠(smoking gun)」と表現し、成果は2020年末、科学誌サイエンスに発表された。
「プールにスプーン1杯」でも効いてしまう
驚くのは、その毒性の強さだ。
サイエンスに載った最初の報告では、幼いギンザケの半数が死ぬ濃度は、水1リットルあたりおよそ0.8マイクログラムとされた。マイクログラムは100万分の1グラムである。その後、精製した標準試薬を使ったより厳密な再評価では、さらに低い、1リットルあたり数十ナノグラム(ナノグラムは10億分の1グラム)でも致死的だという報告も出ている。
数字だけ並べても実感がわかないので、たとえて言えばこうだ。25メートルプールほどの水に、ほんのわずかな量、目薬をひとしずく垂らす程度の6PPD-キノンが混ざるだけで、そこにいるギンザケが危うくなる。それほど低い濃度で効いてしまう。そして雨のあと、都市を流れる川では、この致死濃度を超える値が実際に検出された。
つまり、こういう連鎖が起きていた。街じゅうの車が走り、タイヤがすり減り、6PPDを含んだ粉が道路にたまる。晴れた日はそのままだが、雨が降ると、その粉から生まれた6PPD-キノンが一気に川へ流れ込む。ちょうど秋の雨の季節は、ギンザケが産卵のために川をのぼる季節と重なる。長旅を終え、あと少しで次の世代を残せるところまで来た魚が、街の川に入った瞬間、見えない毒に倒れる。20年以上も原因が分からなかった大量死の正体は、これだった。
ここで面白い(と言うと魚には申し訳ないが)のは、同じ毒がすべての魚に効くわけではない、という点だ。ギンザケはとりわけ敏感で、ごく低い濃度でも死ぬ。一方、近縁のほかのサケの仲間には、はっきりした致死性が出ない種類もある。日本の国立環境研究所などが日本産のサケ科の魚で調べた研究でも、ある種には毒性が出て、別の種には致死性が確認されなかった。なぜ種によってここまで差が出るのか、その仕組みはまだ完全には解けていない。同じ川の水を飲んでいても、生き死にの分かれ目が種ごとに違う。生き物というのは、つくづく一筋縄ではいかない。
「安全のための成分」と「生態系」の板挟み
この発見が突きつけたのは、単純な善悪では割り切れない問題だった。
6PPDは、タイヤのひび割れを防ぎ、走行中の事故を減らすために入っている。抜けば、今度はタイヤそのものが危なくなる。かといって、そのまま使い続ければ、変身後の物質が魚を殺す。「人間の安全」と「川の生き物」が、一本のタイヤのなかで正面からぶつかっている。
だから各国の動きは、一足飛びに「禁止」とはいかず、じわじわと進んでいる。
アメリカでは、カリフォルニア州が2023年、6PPDを含む自動車用タイヤを、より安全な製品への切り替えを促す規制の「優先製品」に指定した。タイヤメーカー各社は共同で、6PPDの代わりになる物質を探す調査を州に提出しており、その次の段階の評価も続いている。ワシントン州も2024年、同じように6PPD入りタイヤを優先製品に指定する法律を成立させた。連邦レベルでも、先住民の部族が「川のサケを守ってほしい」と申し立てたことをきっかけに、米環境保護庁(EPA)が規制に向けた手続きを始めている。2025年には、業界から「初の6PPD代替品」をうたう物質の発表も出てきた。
ヨーロッパでも動きがある。EUは2025年、川や湖で監視すべき物質のリストに6PPDと6PPD-キノンを加えた。まずは「どれくらい流れているのかを測る」段階だ。さらに、化学物質を管理するEUの制度のなかで、この系統の劣化防止剤をどう扱うかの検討も始まっている。
日本はどうか。国立環境研究所などが、日本産の魚に対する毒性や、道路のちりに含まれる量の測定を進めている。制度の面でも、この物質を国が排出量を把握すべき化学物質として扱い、タイヤの摩耗から出る量を推計する動きが報告されている。ただし、本稿の調べた範囲では、日本で6PPDそのものの使用を禁じるといった強い規制は、まだ確認できていない。世界のあちこちで、「安全のために必要」と「生き物に有害」のあいだで、落としどころを探る作業がいま同時に走っている、という段階だ。【一部は速報性の高い政策情報のため、今後変わりうる】
「排気ガスを出さない車」でも、この話からは逃げられない
ここまで読んで、「自分には関係ない」と思った人がいるかもしれない。日本にギンザケの大量死のニュースはあまり流れてこないし、そもそも魚のためにタイヤを気にするのは大げさだ、と。
けれど、この話がほんとうに投げかけているのは、もっと身近な問いだ。それは「車が地面に残していくものは、排気ガスだけではない」という事実である。
私たちは長いあいだ、車の環境負荷といえばマフラーから出る煙のことだと考えてきた。だから電気自動車が「排気ゼロ」だと聞くと、走っても何も汚さない乗り物のように感じる。ところが、タイヤは電気自動車だろうがガソリン車だろうが、同じように路面をこすってすり減る。むしろ電池を積んだ車は重くなりがちで、タイヤの摩耗は増える傾向がある。マフラーを消しても、四隅の黒い輪は消えない。その輪のなかに、安全のための化学物質が入っていて、それが道路と雨を通じて水辺へ流れていく。この構図は、動力が電気に変わっても、そのまま残る。
ヨーロッパで2024年に決まった新しい排出規制「ユーロ7」が、歴史上はじめてタイヤの摩耗そのものを規制の対象に加えたのも、同じ問題意識からだ。排気管の先だけを見ていた時代が終わり、「タイヤやブレーキから出る粉」まで数えられるようになった。ただし、ユーロ7が数えようとしているのは主に「粉の量」で、6PPDのような個々の化学物質の規制はまた別の枠組みで進む。つまり、車が地面に残すものを「重さ」で測る動きと、「中身」で問う動きが、いま並行して立ち上がっているのだ。
タイヤは、道路と接する唯一の部分だ。車という重い塊を支え、曲げ、止める。その責任を果たすために、ひび割れないよう薬を練り込まれた。その薬が、雨の日に、遠い川で魚を殺していた。誰も悪意を持っていなかったのに、である。
私たちが次に車を選ぶとき、タイヤの銘柄まで悩む人は少ないだろう。それでいい。ただ、雨あがりの道路を走るとき、あの黒い輪が路面と海のあいだで何を運んでいるのかを、ほんの少しだけ思い出せる。それだけで、「エコな車かどうか」を語るときの物差しが、マフラーの先から、足元の四つのゴムへと、静かに一つ増える。20年かけて一匹の魚が教えてくれたのは、たぶんそういうことだ。
参照元: Science(Tian, Z. et al., 2020/2021)「A ubiquitous tire rubber–derived chemical induces acute mortality in coho salmon」/ワシントン大学(University of Washington)ニュースリリース(2020年12月3日)/米環境保護庁(EPA)「6PPD-quinone」関連資料/カリフォルニア州有害物質管理局(DTSC)「Motor Vehicle Tires Containing 6PPD」/国立環境研究所(NIES)6PPD/6PPD-キノン関連研究/欧州委員会(European Commission)水枠組み指令ウォッチリスト(2025年)および Regulation (EU) 2024/1257(ユーロ7)/米国タイヤ工業会(USTMA)6PPDに関する解説























