膝まで水が来たら、あなたの車は「船」になる。そして出口は、水そのものに握られている
水深およそ30センチで、1.5トンの車は「船」になり、ドアは水圧で開かなくなる。国土交通省の調査とJAFの実験から、冠水時に本当に効く脱出方法を整理する。
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- 「浮く」のは、車が重いからではなく、水を押しのけるから
- ドアは、内側からは開かない。押しているのは「水の壁」
- 誰もが信じている「ヘッドレストで窓を割る」は、実験では割れなかった
- 最後の望みは、意外にも「水が入りきるのを待つ」こと
- これは「車オタクの知識」ではなく、運転する全員の生活の話
雨の日の運転で、道路がちょっと冠水しているくらいなら、多くの人はそのまま進む。タイヤが少し水を切る音がして、水しぶきが上がって、「まあ大丈夫だろう」と。1.5トンもある鉄の塊が、くるぶしや膝くらいの水でどうにかなるとは、ふつう思わない。重いものは沈むか、どっしりその場にいるものだ、という感覚が体にしみついている。
ところが、その感覚がそっくり裏返るポイントがある。水深およそ30センチ。たったそれだけで、車は地面を離れ、水の上に浮く。1.5トンの鉄が、膝下の水で「船」に変わる。しかも、ここからが本当に怖いところで、いざ逃げようとしたとき、車のドアはあなたの力では開かない。開けるかどうかの主導権は、人ではなく水が握っている。
これは根性論でも都市伝説でもなく、国土交通省が自動車メーカー8社に調査させてまとめた、物理の話だ。順番に見ていくと、「車は丈夫だから中にいれば安心」という直感が、どこでどう間違っているのかが見えてくる。
「浮く」のは、車が重いからではなく、水を押しのけるから
まず、なぜ重い車が浮くのか。
浮くか沈むかを決めているのは、重さそのものではない。船が鉄でできていても浮くのと同じで、「押しのけた水の重さ」が「物体の重さ」を上回れば、そのものは浮く。車のボディは、見た目よりずっと中身が空っぽだ。乗員が座る空間、トランク、そこら中に空気の入ったすき間がある。水位が上がってタイヤが水に沈むくらいになると、車が押しのける水の量がぐっと増えて、浮力が車重を追い越してしまう。
JAF(日本自動車連盟)が実際にやった冠水路のテストでは、水深がタイヤを完全に沈めるあたりになると、車体が一瞬ふわっと浮き上がり、ハンドルを取られたと報告されている。国土交通省の説明も「タイヤが完全に水没すると、車体が浮いて移動が困難になるおそれがある」と、はっきり書いている。
浮いてしまえば、タイヤは地面をつかんでいない。ハンドルを切っても、ブレーキを踏んでも、車は言うことを聞かない。そこに少しでも水の流れがあれば、車は流される。アメリカの気象当局は、ドライバー向けの安全キャンペーンで「30センチ(約1フィート)の水で多くの車が浮き、60センチ(約2フィート)の流れでSUVやピックアップを含む大半の車が流される」と注意を呼びかけている。
ここで一度、スケール感を立て直しておきたい。30センチというのは、ペットボトルを立てたくらいの高さだ。買い物袋を提げて歩けば、足首から脛のあたり。そのくらいの水の中を、車が平気で走っている映像は、ニュースでよく見る。だが物理の目で見ると、その車はすでに「いつ浮いてもおかしくない状態」で水面をこすっているに近い。
ドアは、内側からは開かない。押しているのは「水の壁」
車が止まって水が車内に入り始めたら、人はまずドアを開けようとする。ここで二つめの直感が裏切られる。
水の中では、深いところほど圧力が高い。だからドアの外側には、下にいくほど強く押す「水の壁」ができている。国土交通省の資料は、この圧力について明快に線を引いている。水深がドアの下端にかかると内側から開けるのが難しくなり、ドアの高さの半分を超えると、内側からはほぼ開けられなくなる、と。
どのくらいの力なのか。ごく単純な物理モデルで見積もると、ドア1枚(幅およそ1メートル)に対して、外の水が50センチの高さまで来ているだけで、人がドアを押し返さなければならない力は100キロ超に相当する。70センチなら200キロを超える計算になる【概算:ドアを長方形と見なした単純計算で、実車の形状や密閉度で変わる】。大人が全体重をかけても、水の壁には勝てない。腕力やあせりで解決する領域ではないのだ。
しかも、水が車の床を超えて入ってくると、電気で動く装置から順にやられていく。パワーウインドウが下りなくなる。自動スライドドアが動かなくなる。「窓を開けて逃げよう」という、とっさの一手すら奪われていく。国交省の調査は、こうした不具合が「水深が床面を超える」あたりから始まると説明している。床面というのは、足を置くあのフロアだ。想像よりずっと浅い。
つまり、冠水の中で車が止まった瞬間から、脱出の選択肢は水位の上昇とともに一つずつ閉じていく。もたつく時間はない。
誰もが信じている「ヘッドレストで窓を割る」は、実験では割れなかった
ここで、おそらくこの記事でいちばん「え、そうなの」と思ってもらえる話をする。
車に閉じ込められたら、座席のヘッドレストを引き抜いて、その金属の棒を窓の角に突き刺せば割れる。この知識を、どこかで聞いて覚えている人は多いはずだ。防災の豆知識として、長いこと広まってきた。
JAFがこれを実際に試した。水没を想定して、車内にありそうな5つの道具、ヘッドレスト、小銭を入れたビニール袋、スマートフォン、ビニール傘、車のキーで、運転席のサイドガラスを割れるかどうか検証した。結果は、どれ一つ、窓を割れなかった。割れたのは、専用の「脱出用ハンマー」だけだった。別の年に大学のゼミと合同で行った実験でも、車内にありそうな10点では窓は割れず、やはりハンマーだけが割れた。
理由は単純で、車の窓ガラスは「走行中に簡単に割れたら困る」から、しっかり強度を持たせて作られている。おまけに狭い車内では、体をひねって窓を叩くのに十分な力が入らない。水没していれば水の抵抗も加わる。ヘッドレストの棒という「もっともらしい道具」は、この三重のハンデの前では力不足だった、ということだ。
さらに知っておきたいのは、フロントガラスは専用ハンマーでも割れないという点。フロントガラスは、割れても破片が飛び散らないように、薄い膜をガラスで挟んだ「合わせガラス」でできている。この構造が、脱出のときには逆に立ちはだかる。叩くべきは横の窓(サイドガラス)であって、正面ではない。ただし最近は、横の窓やリアガラスにも合わせガラスを使う車種が増えているので、自分の車がどうかは一度メーカーに確認しておくと安心だ。
「いざとなればヘッドレストで」という安心は、残念ながら最初から積まれていない安心だった。本当に命綱になるのは、数千円で買える一本のハンマーを、手の届くところに置いてあるかどうか、ただそれだけに懸かっている。
最後の望みは、意外にも「水が入りきるのを待つ」こと
ドアも開かない、窓も割れない。そこまで追い込まれたとき、国土交通省の脱出手順は、ちょっと意外な最後の一手を示している。「あきらめないでください」と前置きした上で、こう続く。浸水が進んで、車の内と外の水位が同じくらいになると、ドアが開く可能性が高まると。
理屈はこうだ。ドアを開けさせなかったのは「内と外の水位の差」が生む圧力だった。車内に水が入りきって、内側からも同じ高さまで水が押すようになれば、外からの一方的な圧力は打ち消される。差がなくなれば、ドアはまた人の力で動く。
もちろん、これは車内に首まで水が来るのを覚悟で待つという、極限の選択だ。だから順番が大切になる。水がまだ浅いうちにドアから出る。間に合わなければ窓を開ける。それも無理ならハンマーで横の窓を割る。すべて閉ざされて初めて、水が入りきるのを待ってドアを押す。この順番を知っているかどうかで、パニックの中での数十秒が変わる。
これは「車オタクの知識」ではなく、運転する全員の生活の話
水害は、もう特別な土地の特別な日の出来事ではなくなってきた。都市部で特に危ないのが、鉄道や道路の下をくぐるアンダーパスだ。周りより低いすり鉢の底なので、短時間の豪雨で一気に水がたまり、入ってみて初めて深さに気づく。報道によれば全国に約3800か所あり、近年も、冠水したアンダーパスに進入した車が水没して人が亡くなる事故が各地で起きている。
そして、水害で命を落とす人のうち、避難の途中や移動中に車の中で亡くなる「車中死」の割合は、決して小さくない。2019年の台風19号では、犠牲者のかなりの部分が車で移動中だったと報じられた。家の備えばかりに目がいきがちだが、災害時にいちばん無防備になりやすい場所の一つが、動いている車の中なのだ。
まとめると、頭に入れておくべきことは多くない。
水深30センチ、ペットボトル1本ぶんの高さで、車は浮いて操縦できなくなる。だから冠水した道、特にアンダーパスには入らない。もし水に囲まれて止まったら、水位が低いうちにドアから出る。遅れると、ドアは水圧に握られて、もう人の力では開かない。ヘッドレストでは窓は割れないので、割れるのは脱出用ハンマーだけだと覚えておき、横の窓を狙う。そのハンマーを、グローブボックスや運転席まわりの、座ったまま手が届く場所に一本置いておく。
車に日頃まったく興味がなくても、ハンドルを握るなら全員に関わる話だ。重い車は安全という感覚は、乾いた道路の上でしか通用しない。水が膝まで来たその瞬間、あなたの車は鉄の船に変わり、出口の鍵は水そのものが握る。その事実を一度知っておくだけで、「まあ大丈夫だろう」と水に突っ込む前に、ブレーキを踏む手が少しだけ早くなるはずだ。
参照元:
・国土交通省「水深が床面を超えたら、もう危険!-自動車が冠水した道路を走行する場合に発生する不具合について-」報道発表資料および別紙「自動車ユーザーの皆様へ ―車両からの脱出手順について―」
・国土交通省 自動車不具合情報ホットライン「冠水した道路を走行する際の危険性と車両からの脱出手順」
・JAF(日本自動車連盟)ユーザーテスト「水没時、何を使えば窓が割れるのか?」「冠水路走行テスト」「水深何cmまでドアは開くのか?」
・JAF東京支部・東洋大学竹内ゼミ合同「緊急脱出用ハンマー代用品実験」プレスリリース
・アメリカ国立気象局(NWS)安全啓発「Turn Around Don't Drown」






















